少女たちは次の舞台へ

 

ーー列車は必ず次の駅へ。

  では舞台は?

  少女たちは?

 

 

少女歌劇レヴュースタァライト

トップスタァを目指し、歌って、踊って、奪い合う、運命に翻弄される舞台少女たちの物語。

その劇場版が公開から8週目に突入したにも関わらず、上映館の殆どが毎日のように満席状態となる程、とんでもない話題となっています。

自分が最初に観に行ったのは3週目の時で、Twitterで「劇場版レヴュースタァライト(以下劇スタ)がヤバイ」という口コミがジワジワと拡がりつつある頃でした。

自分はテレビシリーズを地上波放送してた時に録画で観ていたのですが、その完成度の高さから続編というものにそこまで期待を寄せていませんでしたし、その後劇場公開されていた総集編「ロンド・ロンド・ロンド(以下ロロロと略称)」も観に行ってなかったので、今回の劇場版も公開3週目の頃に友人から「観に行った方が良い」と言われるまで、観る予定は立ててませんでした。

 

正直、3週目というタイミングで友人から声をかけてもらって、良かったと思いました。

なぜなら、これを1週目から観ていたら、自分はこのブログを書いている8週目までに何回足を運ぶことになっていたか、分からないからです。

 

誇張抜きに、ここ数年間で観たアニメ映画の中で、3本の指に入るレベルで傑作でした。

(ちなみに、あとの2本は「この世界の片隅に」と「劇場版若おかみは小学生!」です。あくまで個人的なチョイスです)

 

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幾原邦彦氏のお弟子さんこと、古川知宏氏が監督というのは、劇スタもテレビシリーズと同じなので、観る前は「まぁ蛇足に感じるかもしれないけど、あの監督ならある程度は面白いもの作ってくれるだろうし、退屈はしないだろうなぁ」くらいに考えていました。テレビシリーズくらいの作風なら「輪るピングドラム」の時ほど鬱になったりしないだろうし、とか割と余裕ぶって映画館の席に座り、そして……気づいたら、あっという間に2時間が過ぎ、あまりの衝撃にすぐには席を立てませんでした。

感情が全く追いつかず、気づいたらエンドロール。

あの膨大な情報量を、尺が足りずに早回ししているわけではなく、しっかりと無理せず綺麗に2時間で収めているというのは、初見の時点で理解しましたし、その技術力にただただ感激しました。

こんな化け物じみた演出と構成のアニメ映画を、自分は何年振りに観ただろうと。

ふと比較対象として頭に浮かんだのは

新世紀エヴァンゲリオン Air/まごころをきみに(以下旧劇エヴァと略称)」でした。

 

自分は小学生の頃にエヴァと出会い、それから旧劇エヴァ、新劇場版シリーズと、この歳まで追いかけて観てきた者で、エヴァという作品にコンテンツとしてハマっているわけではありませんが、それなりに考察等も立てて楽しんでいたくらいには、思い入れがあります。

ただ、自分が考察だの何だの楽しんでいたのは旧劇エヴァまでで、新劇場版シリーズからはただ観るだけに徹していました。

理由は簡単で、エヴァという作品がコンテンツとして有名になった為、多くの人に観てもらえるように昔の作風からある程度色んなものを削ぎ落とす必要があり、その削ぎ落とされた部分が、自分が子供の頃エヴァを好きになった理由だったからです。

では、何を削ぎ落とされたのか。

それは、旧劇エヴァで特に顕著だった、観る人を選ぶ描写と演出の数々です。

劇エヴァまでの、一見何の意味があるのかも分からない謎な台詞や演出の数々が、自力で考察していくと次第に理解が深まってゆくあの感覚が、自分の中での「エヴァの面白さ」だったんですけど、

新劇場版シリーズは、ただの設定的な後出しばかりで、いくら考察してもテーマ性やキャラクター性とは一切無縁な要素ばかりで、描写や演出もSF作品としては一級品でも、旧劇エヴァまでにあった良い意味での演出的な難解さが、新劇場版シリーズでは感じませんでした。

新劇場版シリーズが嫌いという話ではないです。やはり集大成というだけあってシン・エヴァはその後出し設定のいくつかも解決して、綺麗に〆てくれましたし、いちファンとしては十二分に楽しんで観れました。しかし、あの清涼感を果たしてエヴァに求めていたか…というと、おかしな話「否」なんですよね。なんなら謎も伏線もそっちのけで、旧劇エヴァのような気持ち悪いエンディングでも、自分は構いませんでした。

しかしそうはいかないのが、コンテンツとして人気になった作品の性(さが)なんですよね。

NHKのドキュメンタリーで、庵野秀明氏も

「最近は謎を魅力とは思われない」

という旨の発言をなさっていましたが、要するに分かりやすさを求められる風潮に、庵野氏が合わせてくれたわけです。

良いことだと思います。それで実際、面白かったことには変わりないですし。

しかし、自分はやはり「エヴァの中でどの映像作品が1番好き?」と問われれば、旧劇エヴァと即答します。

あの演出的な難解さと、きちんと考察できるように情報が散りばめられていた台詞や描写の数々が、エヴァの醍醐味だった。自分はエヴァにSF要素を求めていたわけでは無いし、後付け設定を加えるにしても、もっとテーマ性に関わるような心理的な要素の強い設定や演出を求めていました。

シン・エヴァを否定する人の意見もいくつかTwitterやブログ等で拝見しましたが、正直どれも良く分かるんですよね。

コンテンツとしての「整地」は大事なんですが、その為に振り落とされたものも本来の面白さで、それが好きだった人もいるわけです。そして、その振り落とされた要素が好きだった人たちは、自分含め恐らく「アニメの表現力の限界」というものに魅力を感じている、良い意味で希少なオタクたちなんですよ。

別に自分たちのことを「アニメにこだわりのある選ばれし者」とか、そんな風に思ってるわけじゃないです。むしろ世間的に気持ち悪いとハブられる人種ですw

 

 

さて話はレヴュースタァライトから逸れてしまいましたが……その過去のエヴァ作品で個人的に醍醐味と感じていた

「奇抜過ぎて初見では理解不能でも、考えを巡らせればキャラクター性やテーマ性に直接関わっていることが分かってくる、難解な演出や台詞の数々」

それを、劇スタで味わったんですよね。

 

言葉で説明しても全く理解されない表現の数々。

初見では意図を把握しづらい台詞。

それでも、面白いと思わせる力が、あの劇場版には確かに存在しました。

作風はまるで違えど、楽しみ方は旧劇エヴァを初めて観た時と、ほぼ全く同じだったんですよね。

初見では置いてけぼりにされ、しかしこちらに考察させるような構造になっているが為に、劇スタに至るまでのシリーズを観直し、再度映画館へ足を運ぶ。

「なんかよく分からんだけど、凄かった」という意見も多く、そこで終わってる方もいると思いますし、それで全然オッケーなんですけど、自分はそういうわけにはいきませんでした。ちなみに自分は3週目から鑑賞し、この文章を綴っている時点で6回鑑賞してきました。まだまだ観足りないですね。

 

この劇場版公開のタイミングで、公式がYouTubeにてテレビシリーズを無料配信していたのも大きかったです。自分は劇スタを初めて観た後、この無料配信で5回以上テレビシリーズを周回し、ロロロはBlu-rayを買って観ました。

この短期間で相当狂った時間の費やし方をしたなと自負していますが、劇スタの凄いところは、その本編内容は勿論のこと、観終わるとテレビシリーズの見方が変わるんですよね。特に「愛城華恋」に対する見解が深まり、以前観た時はなんの変哲もないと思っていた描写も、劇スタ観賞後は色々考えながら観るようになってしまいました。

ロロロも劇スタの後で観る形になりましたが……正直「総集編」というタイトルに敬遠して、劇場に行かなかったことを、若干後悔しています。大場なながメインの追加カットがある、なんて知っていれば足を運んでいたんでしょうけど、ロロロ自体今回の劇スタみたいに流行っていたわけでもないですし(やはりそこはどこまでいっても総集編ゆえと言いますか)…だから普段からレヴュースタァライトというコンテンツに耳を傾けていなかった自分が、追加カットの情報を手に入れるのは無理だったので、後悔なんかしても仕方ないんですけども。

劇スタの冒頭や、序盤のひかりの言動を理解する上でロロロは確かに履修必須でした。

しかし、それはあくまでテレビシリーズと劇スタを繋げる役割がロロロにあるというだけで、劇スタを語る上でそこは二の次で良いレベルのネタですし、故に視聴順に囚われることなく楽しめるようになってるのが素晴らしいんですよね、このレヴュースタァライトというアニメ作品群。

 

それにしても、この奇抜な演出の数々がここまでの反響を呼ぶとは驚きました。

先程、作風は違えど旧劇エヴァと同じ理屈で、自分は劇スタが好きという話をしましたが、

奇抜さのベクトルの「大きさ」は同じくらいでも「向き」が違うんですよねw

ベクトルの向きが、旧劇エヴァはマイナスに、劇スタはプラスに吹っ切れているわけです(とはいえ双方、それぞれプラスとマイナスに捉えれる部分があるのも素晴らしいところ)。

なので驚いたとは言いましたが、爽快感がある劇スタが口コミで存在が広まり、今に至るのもまぁ納得できるところはあります。

別にレヴュースタァライトに限らず、映画館に足を運ぶ大抵の人は、観た映画の内容を理解してないことの方が多いですからね。オタク、非オタク問わず。

特に最近は鬼滅の刃等をきっかけにアニメ作品にアンテナを立ててる人も多いでしょうし。

とはいえ、(良い意味で)ライト層なアニメ視聴者が、あの奇抜な劇スタをそう何度もリピートするとは到底思えないので、今でも上映館の席を埋めているのは、元からコンテンツとしてレヴュースタァライトにハマっている人か、自分みたくいちアニメ作品として好きになり、研究したいって人がリピートしている結果だとは思いますけどw

 

長々と面倒臭い話をしてしまいましたが、まだ本編の話をしていませんでした(苦笑)

感想は勿論、劇スタを観ていて色々と気づいたことがあり、それがもうホント毎日のように頭の中をグルグル巡っては、また観に行きたくなって……をひたすら繰り返していて、流石に一旦まとめようと思ってコレを書いているわけですが、

以下の項目に分けて、色々書き殴っていこうと思います。

 

・塔を降りる時

・皆殺しのレヴュー

・怨みのレヴュー

・競演のレヴュー

・狩りのレヴュー

・魂のレヴュー

・愛城華恋

・トマト

項目が多い()

本当にこの映画、2時間ぶっ続けで語れるところばかりなんですよね。

とはいえもう公開から8週目。Twitterを漁れば誰かが既に語ってそうなことばかり書き殴る感じになりそうですが、この自分の頭の中で渦巻く情報の波を、一度外に出して纏めたいので……

ここからネタバレのオンパレードで本編の内容に触れていきます。

めちゃくちゃ長い上に、表現が稚拙だったり、なんか文章がおかしくなってたりするかもしれませんが、もしお時間あれば、この作品にぶつけたい私の感情に、どうかお付き合いいただければなと思います。

 

 

 

 

塔を降りる時

 

ロロロの追加カットにて、なながひかりを地下オーディション会場へ呼び出すシーンがありました。ロロロのエンドロール後のひかりのシーンを見ても分かる通り、あそこから劇スタのアバンタイトルへと繋がるわけですが、この時のななとひかりの立場、そしてひかりが呼ばれた理由を整理します。

まず、なながワイルドスクリーーーンバロック(以下wsbと略称)の裏方……脚本兼監督として立ち振る舞っていることは、ロロロでの彼女の言動から分かります。

wsbは、我々観客たちの熱によって生み出された、いわばスタァライト公演エキシビジョン。

その幕を開ける為には、フローラとクレール、そして女神たちが星摘み(星罪)の塔を降り、それぞれが新しい未来へと進まなくてはなりません。

この裏方の動向と並行して、クレール役であるひかりには、ある悩みがありました。それは、華恋の演者としての成長に対する、自分への恐怖。ひかりが華恋の芝居に見惚れ、華恋のファンになってしまいそうになった(演者として隣に立てなくなる)ことに恐怖を抱いていたことが、劇スタで明かされています。そしてひかりは、華恋から距離を置くことを選び、再びロンドンへ行ってしまうのですが…このひかりの行動をメタファーとして描かれたのが、劇スタのアバンタイトルになるわけですね。

ここで、ある疑問が生じます。

 

それは、アバンタイトルはwsbではないのか?ということです。

どういうことかというと、ロロロにてななに呼び出されたひかりでしたが、どうやらwsbという演目を行うということを知らなかった、知らされていなかったみたいなんですよね。現に劇スタのキリンが地下鉄でひかりを迎えに来たシーンにて、ひかりがwsbという単語を初めて聞いたような口ぶりでしたし、そもそもwsb自体「皆殺しのレヴュー」を開幕の儀としています。

 

これを考える上で、まずwsbという造語の意味について考える必要があります。

wsbとは「ワイドスクリーンバロック」と「ワイルド」を掛けた造語で、これは皆殺しのレヴューの時に流れている「wi(l)d-screen baroque」という曲名からも分かります(まぁワイドの綴りはwidではなくwideですが)。

ワイドスクリーンバロックという言葉をざっくり説明すると、目まぐるしい程のアイデアに溢れたSFというような意味で、劇中のレヴューシーンを見ての通り、テレビシリーズ以上に外連味の効いたアニメ作品ならではの内容になっていました。

そしてワイルドは「野生的な」という意味で、これは劇中でキリンから言及された「トップを目指して渇き、飢えている舞台少女」を表していると考えられます。

つまり、この二つの単語を混ぜ合わせて「トップスタァを目指す少女たちによる、時間や空間、ありとあらゆる常識を越えた舞台」という意味がwsbという造語に込められていることになるわけですね。

 

で、先程の疑問に戻るのですが…アバンタイトルでの華恋とひかりの戦いは、渇きや飢えを潤す奪い合いでは無いんですよね。どちらも既にトップスタァを経験していますから座を奪い合う必要はありませんし、更に言えば、テレビシリーズの最終回にてトップスタァの座をひかりから奪った華恋ですが、それにより華恋はひかりとスタァになる運命を叶えたので、華恋は恐らくこの時トップスタァのキラメキを使い果たしています。

つまりあの劇スタのアバンタイトルでの掛け合いは、奪い合いの精神であるwsbという演目のテーマに沿っておらず、トップスタァのキラメキを失った2人が、再び渇き飢える舞台少女に戻る為に塔を降りるという儀式のようなものだったのではないでしょうか。

ただ形式上、トップスタァのキラメキが無くなったとはいえ、オーディションの最終的な勝者が華恋だったので、フローラと対を成すクレールの役を演じたひかりが、華恋のボタンを弾くことで、トップの座から下ろす必要があったのではないかと考えます。

これでひかりが華恋に勝利しても、華恋にトップスタァのキラメキは残っていませんから、奪ったことにならず、ひかりがトップスタァになることもありません。故に劇スタのアバンタイトルでの出来事はwsbの前準備という扱いになるのではないでしょうか。

 

……ただ、またここで疑問が浮かび上がります。

塔から降りて「渇きと飢え」を満たそうとする舞台少女に戻ったひかりも最初からwsbの参加者になるはずなのでは?ならば何故ひかりはwsbのことを知らなかったのか?

 

ここでポイントになるのが、ひかりの葛藤なのだと考えます。

ひかりは「華恋のファンになってしまう」という自分への恐怖をきっかけに、華恋から離れるべく聖翔を自主退学、ロンドンへ移住することを決めます。そしてその行為を、劇スタのアバンタイトルでの出来事(wsb前準備)に重ねている…ということは前述しましたが、

このwsbの前準備によって、ひかりは「華恋への執着を断ち切った」と、自分を納得させたのではないでしょうか。

wsbに参加するまでもなく、この前準備を完了することにより、自分は未来へ進める。だからひかりは、ななやキリンからwsbの概要を聞くこともなく、前準備の手順だけ聞き、遂行した後、すぐにロンドンへ発ったのだと考えます。

 

 

時系列で纏めますと

 

観客の声に応える為キリンとなながwsbを企画

その前準備として、100回聖翔祭にてトップスタァのキラメキを使い果たした華恋をトップスタァの座から下ろすべく、スタァライトでの役的にも、ロンドン行きを決めた時期的にも、都合が良かったひかりに、ななが声をかける。

ひかりがななとキリンの企画の、前準備に参加することを承諾。

(ひかりはそこで華恋への未練を断ち切り、ロンドンへ発つ為、wsbの概要を聞かなかった)

※ここまでがロロロの内容

ひかりがwsbの前準備を実行し、華恋をトップスタァの座から下ろす。この時、既に華恋はトップスタァのキラメキを失っている為、ひかりへのキラメキの譲渡が発生しない=トップスタァ不在の状況が完成する。

自身の役目を果たし、未練を断ち切った(つもりになっている)ひかりはロンドンへ移住。

 

……といった流れになるのが、ロロロから劇スタのアバンタイトルまでのお話だったということになるのではないでしょうか。

 

 

 

皆殺しのレヴュー

 

電車に乗り、華恋たちが新国立の見学会に向かう途中、突如キリンの例のBGMが車内アナウンスで流れ出し「皆殺しのレヴュー」が開演するわけですが、

このレヴューを振り返る前に、まずこの作品における電車(列車)の役割を考えてみます。

 

列車は必ず次の駅へ。

では舞台は?

少女たちは?

 

これは劇中で、ななとキリンの口から発せられるwsbという演目の最初の台詞になりますが、

列車というのは、人を決められた場所へ運ぶ乗り物であり、その列車は、レールという決められた線の上を走ります。そして、どの列車に乗るかは、人によってそれぞれ違いますよね。

向かいたい場所はどこか、そして何時に到着駅へ着くのがベストか、人はそういうことを考えながら、列車という乗り物を利用します。

つまり「列車に乗る」という行為が、その人が決めた運命へと向かう為にとるべき行動のメタファーになっており、

「列車の進む速度」が、その人が行き着く運命までの時間経過を表していることになります。

 

劇中にて、華恋たちが乗った電車は新国立という場所に向かって走っていますが、

将来そこに入団することを考えている、真矢、まひる、双葉は、駅が近づくにつれ気分が高揚し、話に花を咲かせていました。

それに対し、フランス留学が決まっていたクロディーヌが「まるでファンね」と口にします。

つまり、真矢、まひる、双葉が新国立に向かう列車に乗っているという状況が、その運命に向かって進んでいることに3人とも浮かれてしまい、新国立のファンになってしまいつつあったということを示唆していることになるわけです。

これが、この3人が皆殺しのレヴューによってななに粛清される理由にもなります。 

…最も真矢においては、皆殺しのレヴューが開演する前から、舞台少女であることの矜持をずっと胸中に秘めていたようですが。それについては、寮のリビングで香子が「今日が何の日か」をみんなに問うた時に、真矢が顔色一つ変えずに「オーディション」と答えていた辺りからも窺えます。

 

その後のシーンで、一人離れたところからみんなの会話に耳だけ傾けていた香子が「いつまでたらたら走ってるんや…」と呟きますが、これが先程述べた「列車の進む速度」が指す「運命に至るまでの時間経過」に直結する台詞になります。

香子は、双葉が自分に黙って新国立を目指すと決めたことに不満を抱いていました。香子にとって、自分から双葉を奪った新国立という場所は、忌み嫌うべき「運命の執着点」だったわけです。

つまり香子の中では、この時乗っていた列車が新国立の駅に着いてしまうという状況が、双葉が新国立へ入団してしまう未来を示唆してしまうことになり、香子はそれが納得できない。次の駅に到着してほしくない香子の気持ちが、彼女の体感時間を遅めていることにより、双葉が運命の執着点へ到達するまでの時間を無意識に長引かせているんですよね。それが「いつまでたらたら走ってるんや…」という発言に繋がるのだと考えました。

 

純那に関しては、周囲のキラメキに自信を無くし、みんなと同じ舞台に将来立つことに恐怖していたとはいえ、舞台への興味を失ったわけでは無い為、しっかりと見学時の質問をたくさん考えていました。この時の純那は、決して前向きではありませんが、元々の勤勉さが上手く不安を誤魔化し、あたかも新国立のような素晴らしい劇団へ"いつか"入団できるだろうという希望を胸に抱えているので、その場所へ迎えることに喜びを感じているわけです。なので、入団希望組と対面する席(肩を並べられない位置)に純那を座らせることにより、彼女が入団希望組と同じ高みへ進めていると"錯覚している"ことを、あの人物配置から読み取ることができます。

 

人物の配置といえば、クロディーヌも純那と同じ席に座っていました。

一見、フランス行きも決まり、進路に不安の無いように見えるクロディーヌですが、

後に「魂のレヴュー」待機中の楽屋シーンにて、真矢とのレヴューデュエット(テレビシリーズ第10話)で舞台少女として燃え尽きていたことが語られます。

加えてクロディーヌは見学会の前日、寮の洗濯室でまひると会話している際、まひるの「双葉ちゃんの(見学会で聞きたい質問の文量)はもっと長いよ。見る?」という発言に対し「遠慮するわ」と返します。確かにクロディーヌは既にフランスへの留学が決まっている身ですから、入団予定の無い劇団への質問にそこまで興味を持つ必要はありませんが、トップを目指し、日々研鑽を積んでいたあのクロディーヌにしては、随分素っ気ない反応のように思えます。あのライバル視している天堂真矢も目指す劇団なわけですから、以前の彼女であれば、もう少し目を向けていてもおかしくないです。しかし、この違和感のあるクロディーヌの反応も、既に舞台少女としての死を迎えていたことを考えると納得がいきます。

つまりクロディーヌもまた純那と同じく、みんなと同じ電車に乗り、同じ高みへと向かって進めているという"錯覚"の中にいた一人ということになるわけです。

 

そして、華恋となな。

電車内の人物の中で、あの二人が進路を決めていない組であることは、冒頭の進路相談パートで明示されています。なので2人は、このまま他のみんなと一緒に次の駅(運命)へ向かうわけには行きません。

よって2人は、電車の走るレールの分岐を変更し、真矢たちとは別のレールを走り始め、電車内から姿を消します。

 

ここで、ななに焦点を当てるのですが…

電車内から華恋とななが姿を消した後、真矢たちはレヴュー衣装に着替え、変形した電車の上で、消えたはずのななと対峙します。

舞台少女としてではなく、脚本家としてなながキャストのみんなの前に立ちはだかり、圧倒することによって、彼女たちがもう舞台少女として死んでいることを自覚させることが「皆殺しのレヴュー」での目的なわけです。

 

…さて、こうして突如始まる「皆殺しのレヴュー」ですが、このタイミングで不思議なことに、華恋と共に分岐した先の駅へ向かったななと、舞台少女としての死を告げる脚本家としてのななが存在する(ななが2人存在する)ことになるのです。これの理由を考える上で、知っておくと良いと思うネタについて触れます。

それは、舞台少女大場ななの武器である二振りの刀です。

テレビシリーズから劇スタに至るまで、劇中で発言されてはいませんが、あの刀には名前が存在します。

設定によると、二振りのうち、長い方が「輪(めぐり)」で、短い方が「舞(まい)」という名前なのですが、合わせて「輪舞」となり、ななの「ようやくできた大切な友達と、ずっと輪になって踊っていたい」という想いが、名前から伝わってきますね。同時に、輪になって踊るという意味を持つ「輪舞」が、彼女の「何度も同じ時をみんなと繰り返す」という行為を示唆しているようにも受け取れます。

その「輪」と「舞」ですが、そもそも何故ななだけ武器が2つもあるのかという話です。

レヴュー参加者の武器は、本人の性格や特性、キラメキの大きさにより、形状が決定・変化することは、テレビシリーズにてキリンの口から語られていますが、ななの場合「役者としてのキラメキ」「裏方、特に脚本家としてのキラメキ」を秘めており、それが、彼女の武器が2本である理由です。

では「役者としての大場なな」と「脚本家としての大場なな」……どちらが「輪」で、どちらが「舞」となるのでしょうか。

テレビシリーズにて、第100回聖翔祭では脚本見習いとして関わっていたり、劇スタ冒頭の進路相談では、役者か裏方か、どちらの道を進むべきか悩んでいたななですが、「狩りのレヴュー」そしてエンドロールにて、彼女は役者の道を進む運命にあったことが分かります(詳しくは後述の「狩りのレヴュー」で)。

よって、ななの中で

役者>裏方

という、だいなりが成立し、これはそのまま二振りの刀の形状にも影響しているのではないでしょうか。

つまり「輪」が「役者としての大場なな」を、「舞」が「脚本家としての大場なな」を象徴していると仮定できます。

この仮定に則って考察を進めると、本当に面白いシーンのオンパレードだったんですよね、この劇スタ。

 

それを踏まえて話を戻しますが…

wsbの開幕を飾る「皆殺しのレヴュー」が開演し、激しいドラム音が鳴り響くと同時に、大場ななが、脚本家としての自身を象徴する「舞」を片手に、真矢たちの前に立ちはだかります。そう、この時のななは役者ではなく、脚本家として立っている為、「輪」ではなく「舞」を握っているんですよね。

加えて、「舞」を収めていた鞘には、ななが好きなカエルのシールが貼ってありましたが、カエルといえばそう…第99回聖翔祭の台本にも、ななはカエルのシールを表紙に貼っていました。恐らく「舞」の鞘は、あの第99回聖翔祭の台本が形を変えたものなのだと思います。第99回聖翔祭…その脚本が書かれた台本が、脚本家としての大場ななを支えている、という構図が、刀と鞘で巧く表現されています。

余談ですが、テレビシリーズ第9話にて「絆のレヴュー」の後、一人で落ち込むななのところに純那がやってきて「忘れもの」と言いながら、ななにあの台本を渡すシーンがありましたが、テレビシリーズで鞘が一度も出てこなかったのは、なながテレビシリーズで一度もレヴューの場に台本を持ってきてなかったということを示しているのだと考えます。実際のアイテムがレヴューの舞台で形を変えるという現象は、華恋とひかりの髪飾りなど他に例があるので、台本が鞘に形を変えるというのもあり得なくはないなと思いました。

そして、この「形を変える」という現象は、常識が通用しないwsbにおいて、更に色んな考察を生むことができます。

それは…「輪」が大場ななの姿となり、華恋と共に乗り換えた方の電車に乗っていた、という考えです。

 

順を追って説明すると

 

華恋となな(の姿をした「輪」)が、電車を乗り換える

皆殺しのレヴュー開演

(レヴュー開演と同時並行で)「輪(役者としてのなな)」が華恋を見送った後、来た道を戻る電車に乗り、なな(本体)の元へ向かう

「舞」一本で戦うななの元へ「輪」が電車に乗って到着

 

というのが、本来のストーリー進行…という感じ。

華恋となな(輪)のやり取りを皆殺しのレヴュー後に持ってきたのは、アニメとしての構成を良くする為というのが最もな理由なのでしょうが、そういうメタ的な考えを抜きにしても、wsbが持つ「時間時空を超越する性質」に基づいて、時間が逆行してても問題ないと言えるわけです。

皆殺しのレヴュー開演から「輪」が届くまでの時間と、「輪」が華恋を見送り、電車で復路に着く時間も、明らかに噛み合ってませんが、それもwsbの常識外れな性質により捻じ曲げれます。

まさに、アニメだからできる、納得できる荒業ですよね。

 

「やっと来た」→「遅かったね。ちゃんと華恋ちゃんのこと送ってあげられた?役者として、華恋ちゃんの後押しできたかな?」

と読み変えることもできそうです。

 

また「輪」が後から到着するという展開も、ななの心理に基づいたものだと考察できます。

ななは華恋と同じく、進路が定まっていない子でした。故に真矢たちと同じ速度で運命の終着点に辿り着くわけにはいかず、別の電車に乗り換えたと前述しましたが、ななと華恋の違いは、定まってなくともある程度将来の道を固めてあるか、全く将来が定まっていないか、というところにあります。先生との進路相談で、ななは志望先を記入していたのに対して、華恋は白紙だったことが、その証拠です。

つまり役者としての大場ななは、真矢たちと同じ速度で電車に乗る資格が無いと考えて、似た悩みを持つ華恋と同じ電車にわざと一旦乗り換え、その乗り換えた電車の行き着く先である運命の舞台には、華恋だけ向かわせて、役者・大場ななは向かわずに途中下車したことになります。

そして、華恋を見送り、役者・大場ななの象徴である「輪」が元の身体に帰ってくることにより、真矢たちよりも後から、ななが演者として参加するという流れが生まれ、みんなよりもななが役者として遅れている、ということの暗示になっているのではないでしょうか。

 

さて、ここから皆殺しのレヴュー後半戦について語りたいのですが…

ななが二刀とも揃ったことにより、彼女の口にする言葉が、キャストとしての「芝居」と、裏方としての「指示」で入り乱れており、初見時は本当に意味不明でした。

そしてそれは、我々観客だけではなく、ななに突然刃を向けられたみんなも同じで、唯一ななの言動に対応できていたのが真矢でした。現に、なながみんなの肩掛けを流れるように落としてゆく中、最後にななと剣を交えた真矢はボタンを弾かれないまま、レヴュー終演となりましたね。さすがとしか言いようがないです。直後の決起集会で周囲に溶け込み、次の舞台のことを真っ先に考えていたのも、舞台少女の中では真矢だけでしたので、やはり彼女は格が違うのだなと改めて感じました。

そんな真矢とななの2人についていけず、激昂したのがクロディーヌでしたが、真矢とのレヴューデュエットで燃え尽きた彼女が放つ言葉は演者のものではなく、単なる八つ当たり。

「私の台詞を、無視、するなぁーっ!」

と、"台詞"と口にしている辺り、クロディーヌは自分も演者としてレヴューの舞台に立っているつもりではあるようですが、脚本家のななから

「クロちゃん、ちょっと、喋り過ぎ」

→「クロちゃん、今は真矢ちゃんと掛け合いをしている最中だから、アドリブで入ってこないで」

と、ダメ出しを受けてしまいます。

 

一方、ななにとって唯一無二の親友である純那は、初めて見るななの舞台少女としての姿と、その恐ろしさを前に、

「こんななな、知らない…」

と、なすすべもなく跪きます。

レヴュー終演後、ななの

「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」

という芝居にも、役者としてではなく素で返してしまった純那の首から血飛沫(トマトジュース)が出る演出には、初見時本当に驚かされました。

 

その血飛沫を誰よりも先に「舞台装置だ」と理解し、慌てるみんなに「狼狽えるな!」と喝を入れた真矢も印象的で、ここでも彼女とみんなとの格の違いを感じ取れますよね。

 

何と言いますか、初見時はこのレヴュー開幕初っ端から、強烈な魔剤を飲まされたような感覚に陥りました。

ななが大好きだったというのもあり、いきなり飛び跳ねまくってみんなの肩掛けを落としまくるななの姿を見れて最高にテンションが上がったのは確かなのですが、同時にエッジの効きまくった台詞と演出の数々に、恐怖で鳥肌が止まらなかったです。

 

 

 

怨みのレヴュー

 

ただの幼馴染ではなく、主従関係にも似た付き合いの、香子と双葉。舞台に例えるならば、主役と脇役といったところでしょうか。

千華流の後継ぎとして常に脚光を浴びることを求められる香子にとって、双葉という存在は唯一心を許せる安らぎの場であり、自分のファンであり、同時に逃避先でもあったことは、テレビシリーズでも描かれていました。

第6話アバンタイトルでは、日本舞踊の練習から抜け出し、練習が嫌だから甘やかしてくれるところに家出すると双葉に目配せしながら語る幼少期のシーンがありましたが、ここからも見てとれるように、幼い頃から香子にとって双葉は「逃げ場」だったわけです。

しかし、その双葉が「お前の踊りが好きだ」と言ってくれるから、香子は双葉のもとへ逃げても、また再び「襲名」という「定められた運命」に立ち向かうことができたのです。

「すぐ逃げる情けない自分を1番近くで支えて、応援してくれるファン1号」

双葉とのそんな関係を保つ為に、香子は主役のように輝く必要があるのですが、聖翔という場において彼女が主役になることは一度もありませんでした。

そんな香子がまだ主役になれる可能性があったのが、オーディション。だから香子は、劇スタの寮でのシーンで、あの場の誰よりもトップスタァに拘っていたんですよね。双葉との関係を続ける為に。

そして、トップスタァという座を私利私欲の為にしか考えていない自分の情けなさを理解し、加えて双葉を成長させるきっかけをずっと作り続けているクロディーヌに八つ当たりしそうになった香子は「ウチが、1番しょうもないわ」と自分に吐き捨てます。

 

卒業すれば、千華流後継ぎとして襲名する身ゆえ、もう「花柳香子」という名前で双葉との関係を築けない。

主役になれなければ、どんどん自分に追いついてくる双葉と、昔のような関係ではいられない。

そんな悩みも知らずに双葉はどんどん力をつけて、遂には自分の元から物理的にも離れようとしている。

 

そんな葛藤がどんどん膨らみ、香子はその怒りを「怨みのレヴュー」という形で爆発させます。

 

香子が望む双葉との関係は、双葉が常に「下」でないと成立しません。

しかし双葉は「香子と同じ舞台に立つ」ことを目標にしている上に、その目標に向けてどんどん強くなる為に、香子とは違う場所で暮らすことを選んだのです。それは、香子の望む関係と真っ向から衝突してしまいます。

香子の為に駄菓子を買ってやってた。

香子の為に送り迎えもした。

「双葉の努力」は全て「香子の為」だった。それは進路も同じ……双葉はそう考えていましたが、こと今回に関しては、そうはいきません。

そんな持論を掲げ「お前の為にも」と手を伸ばす双葉に腹を立てた香子が放った台詞が

 

「はぁ…うっと」

 

セクシー本堂という空間を作り、大人の色気と怒声で双葉を圧倒しようとする香子の演技は、まさに「お前は私より下だ」と言わんばかりのものでした。

名前とデザインがあまりに強烈で、流石に初見は笑ってしまったセクシー本堂ですが、どんどん追いついてくる双葉に、香子が唯一勝りそうな色気を全面に出してマウントを取ろうとした結果生まれた空間なのかなと考えると、割と腑に落ちました。

その香子の威圧感に押されながらも、自分の決めた道を曲げない双葉ですが、どうしても強くなる為の引き合いに他の女の子の名前を出す彼女の言葉が、更に香子を責めます。

「香子の輝くところを1番近くで見たい」

「その為に香子の背中を追いかける」

テレビシリーズの頃はそう主張していたはずの双葉が、今度は

「他の女の子の強さが欲しくて、香子の下を離れる」

と言い出したわけです。

それは香子には

「香子の背中を追いかけても強くなれない」

と聞こえたんじゃないでしょうか。

双葉が強くなる為には、結局私は邪魔になっているのではないかと。

そんな小難しいこと(大人の理屈)を考えずに、ずっと自分の背中を見続けていて欲しかった。

子供の頃のままでいてほしかった。

それが叶わないのなら、もう絶交するしかない。

襲名により花柳香子の名を捨て、絶交し、双葉を独り立ちさせることが、お互いにとって最善の策であると考えた香子は、

「(私のことが)鬱陶しなったんやろ、なぁ?……表出ろや」

そう言って、絶縁を申し出ます。

 

色々と勝手に決めつけて行動を起こす双葉ですが、この時の香子の言動も大概勝手です。

ただでさえ自分のずっと前を歩いていて、やっと追いつけるって思ったのに、手が届かなくなってしまう。

自分は香子に我儘1つ言わずにここまでついてきたのに、今度もまたその我儘で、香子はとうとういなくなってしまう。

そんな香子に、双葉は「香子ばっかり我儘言ってずるい」と、本音を漏らします。

そして、ずっと香子の言うことに従い、ずっと香子の為を思って行動していた双葉が、香子を妬んでしまった時点で、これまでの2人の(主従)関係は崩壊します。

 

「もう、一緒にはいられない」

 

もうこの辺のやりとりで、涙がぼろぼろ流れていました。

ずっと一緒にいたいはずなのに、どうしてここまですれ違ったのだろうと。

ただ、そのすれ違い方も巧みに計算されていて、こうやって紐解いていけば納得できるくらい、美しい脚本だなと惚れ惚れするんですよね。

 

「ずっと後ろをついてきてほしかった」香子。

「ずっと一緒にいる為に強くなると決めた」双葉。

 

すれ違う互いの強き想いがデコトラを形作り、まさに一触即発の状態に。

セクシー本堂並に初見のインパクトが絶大なデコトラですが、「皆殺しのレヴュー」の方でも言及した通り、これも何かがwsbの性質により形状を変化させたものだと考えます。

考えられるのは、香子の「家柄、使命感、才能」でしょうか。よくよく並べてみると、確かに香子がいかに大きなものを背負い続けてきたか分かりますね。3台なのもそういうことだったのかと。そして、その香子が背負う大きなもの全てに真っ向から挑む為の「覚悟、勇気、努力」が、双葉にとってのデコトラなのだと考えます。

 

香子が抱えるものに対抗する双葉。想いが衝突する直前、香子の本音が双葉にようやく届きます。

 

「うちら、ほんましょうもないで」

 

こんな大袈裟に喧嘩までして大人気ない。

ならせめて最後くらいは大人らしく、今まで我儘言った分、こちらが譲歩しよう。

 

香子の真意を悟った双葉は、舞台から自ら落ちゆく香子の手を掴みます。

 

「…縁切りとちゃいましたん?」

「ずるい…香子ばっか私を独り占めして…ずるい…」

 

香子が自殺の芝居を成立させ、レヴューが終演すれば、結局双葉は一生、香子の手のひらの上。そうならない為に、香子の自殺を阻止した双葉は、心中を選びます。2人同時に落ちる(今までの自分たちを殺す)ことで、生まれ変わり、新しい関係を築こうとしたわけですね。一方的に我儘を通す関係ではなく、互いに我儘を言い合える対等な関係を。

心中した2人が落ちた先は、幼少期の思い出と重なる桜吹雪の中。

心中し、生まれ変わり、あの頃と同じ風景の中で、双葉が香子の上に乗っかる形で、新しい関係を築く為の儀式が始まります。

それは、生前(前の関係の時)の貸し借りをチャラにすること。それにより、2人は対等なゼロスタートを切れるわけです。

その手始めに、双葉は香子にバイクのキーを託します。奇しくも第6話の「約束のレヴュー」開演直後に双葉が言っていた通りの展開です。

 

「バイク、頼むな」

 

いつも「早くしろよ」とバイクに跨り、香子が後ろに乗るのを待っていた双葉。

このバイクというアイテム、主従関係の従者の方が主より前に座ることが出来る、この2人の中では唯一のアイテムなんですよね。車では駄目なんです。バイクであることが重要なんですよね。

そのバイクのキーを香子に託すことで、双葉は香子に現状唯一マウントを取れるアイテムを失います。逃げ場を徹底的に無くしたわけです。しかし、そう簡単に双葉に抜かされたくない、横に並ばれたくない香子は維持を張り、

 

「待たへんよ…こんなん渡されても」

 

と、返します。関係が対等になっても、双葉より前にいたい…双葉をおいていって、先を走っていたい…そんな香子の負けん気の強さが表れている台詞ですね。

 

そして、wsbは歌って踊って"奪い合う"のがルール。

オーディション同様ボタンを弾くことが終演の合図になっているのは確かですが、この"奪い合い"という条件を満たさなければいけません。奪い合うことで、新しい関係を築き、対等になれるわけです。

 

ここまでの流れから「怨みのレヴュー」では、

双葉が香子から「主の座」を奪い、

香子が双葉から「従者の象徴であるバイク」を奪ったことが、終演の合図ということになると考えます。

 

 

競演のレヴュー

 

華恋に異変をキリンから聞き、ロンドンの地から再び華恋の元へと向かうひかり。

wsbの前準備段階(前述の劇スタアバンタイトル)で華恋への未練を断ち切ったように見せたひかりですが、再び舞台少女の衣装を纏うその姿と言動からは、華恋との別れ方に後悔があったようにしか見えません。

事実そのせいで表情には焦りと不安が浮かび、まひるとのレヴューに全く集中できず、演技が疎かに。

ひかりとのレヴューを楽しみにしていたまひるは、舞台少女神楽ひかりの怠慢さに怒り、ひかりを精神的に追い詰めていきます。

ここ本当に怖かった。アニメを観てて、恐怖で鳥肌が立ったのは久しぶりでした。

メイスをグラウンドに叩きつける音。次第に大きくなっていく「あなたがあなたがあなたが……」と連呼する声。要所要所で挿入される不気味なサウンド。普段あまり自分は映画というものにアトラクション性を求めていないので、爆音上映とか4DXはもちろん、映画館で観なきゃ意味がない的な演出にはそこまで興味がないのですが、こと「競演のレヴュー」のホラー演出に関しては、普通にBlu-rayを買って自宅の環境で観ても絶対面白いと思えるクオリティですが、劇場の音響で楽しめて良かったと素直に思えました。

 

テレビシリーズ第5話にて、周囲との実力差からキラメキの原点を忘れてしまったまひるが、華恋の優しさに触れ、華恋に好意を寄せることで、挫けずに学校生活を送ってこられたことが明かされます。

だらしない華恋に世話を焼く毎日に満足していたまひるですが、ひかりが転校してきたことにより、その日々が一変。かつて結んだ約束…運命に向かって華恋が再び歩き出したことにより、まひるは縋るものを失ってしまいます。

ひかりに嫉妬し、華恋を独り占めする為にオーディションを勝ち進もうとしたまひるでしたが、華恋の言葉で自身のキラメキの原点を思い出し、「誰かに頼らずとも舞台に立てる」勇気を次第につけていくようになりました。

そのまひるが、ひかりと対等な立場で「2人で舞台に立ちたかった」と話すわけです。彼女の成長を垣間見れる良い台詞…だったのですが、肝心のひかりがまひるを見ずに華恋のことばかり考えているのが本当にもどかしくて、まるで華恋に執着していたかつてのまひるが重なって映るようで、まひるもそりゃ怒りますよと。しかも華恋華恋と言っているひかりが、華恋を放置して落ち込ませた張本人ですからね。

 

しかし、ひかりが演技しないことや、理由はどうあれ華恋を置き去りにしたことに対して、まひるが怒りを覚えたのは間違いないと思うのですが(妬み無しにひかりに挑める念願のレヴューだったわけですし)、レヴュー曲「MEDAL SUZDAL PANIC ◎◯⚫︎」の「私あなたが大嫌いだった」という歌詞は果たして本心だったのでしょうか。

本心か演技か区別がつかないレベルにまで、まひるの演技力が向上しており、それにはひかりも「本当に怖かった」と言っていましたが、

個人的には、レヴュー終盤で本人が「演技」と語っている通り、本気でひかりを嫌いなわけがないと思います。

転校してきてすぐの頃のひかりのことを、まひるは嫌いだったかもしれません。いきなり現れて、華恋との関係を壊されたわけですから。

しかし、かつてのまひると華恋の関係というのは実はかなり歪なもので、むしろ将来的には壊された方が良かった部分が大きいんですよね。

そもそもまひるが華恋に想いを寄せることになった原因は「周囲との実力差による自信の喪失」であり、そのまひるにとって、同学年の中でもだらしない姿が多い華恋という存在は、良くない言い方をすると「格下」だったんですよね。自分よりも不出来な華恋を無意識に格下として認識し、その華恋がいるから自分もまだこの学校にいられるという仕組みを形成したわけです。あまりに残酷な考察だなと思いますが、アニメ第5話の「嫉妬のレヴュー」での「お世話させてよ!」という台詞からも、あの時のまひるのそういう弱さを感じたのも事実です。

この「お世話」というのは、双葉が香子の為にやっていた「お世話」とは、確実に異なるものでした。なぜなら、双葉の「お世話」は香子…つまり相手の為であったのに対し、まひるの「お世話」はあくまで、自分がキラメキを完全に失わないようにする為…自分の為だったからです。

自分の居場所を無くさない為に他人の世話を焼く。そのような関係が対等なわけがありません。本人の意思関係なく、そこには必ず上下関係が存在します。これが、まひるがかつて華恋に寄せていた好意の歪さであるわけですが、この上下関係が生まれた原因に「華恋の人間性」が関わっており、同時にそれは、まひるがひかりのことを嫌いなわけがない理由にも繋がります。

 

後述の「愛城華恋」の項目で詳しく語りますが、

まず聖翔に入学した後の華恋は「幼き頃のひかりの幻影」を被った性格をしています。

中学3年時の華恋はある日、幼少期のひかりの幻影を被るようになり、徐々にひかりの明るさを顔に出すようになることが、劇スタの華恋の回想シーンで明かされました。

つまり、まひるが好きになった華恋とは「ひかり(幼少期)の性格を被った華恋」であり、本来の愛城華恋ではありません。

そして、露崎家長女であるまひるが、そんな(表向きは)子供っぽい華恋のことを"歳下"のように扱い、世話を焼くというのは、残酷なくらい自然な流れであると言えるでしょう。

ただそれと同時に、まひるはひかりと出会う前から、華恋を通してひかりの本質を知り、好きになっていたということになるわけです。

テレビシリーズの第6話以降、華恋とひかりを横に並べて、まひるが2人をまるで妹のように叱るシーンが特に顕著です。

そして、第5話のラストでまひるは華恋の笑顔を見て

「やっぱり、大好き。けど、もう誰かを頼らなくても…」

と心の中で呟きますが、何度も言うようにまひるの好意対象は「ひかりの本質を表に出した華恋」なので、「競演のレヴュー」での「私あなたが大嫌いだった」というのはやはり演技であると、自分は考えました。

 

それを踏まえて「競演のレヴュー」を振り返ると、このレヴューが終演する条件とは一体何だったのでしょうか。

「競演のレヴュー」の全体構造上、最初からまひるがひかりのマウントを取る脚本(メタ的な意味ではなく、展開的な意味です)になっていたわけですが、恐らくこの脚本を立てたのは、大場ななではなくまひるでしょう。

描写が無い以上完全な妄想でしかありませんが、学生寮で華恋とひかりと同室であり、2人の面倒見役であるまひるが、ひかりの悩みに全く気づかなかったとは考えにくいです。

ひかりはきっと、みんなとまともなお別れもせず、黙ってロンドンへ発ったでしょうし、ひかりがいなくなった後の華恋を見れば、絶対ひかりの方も華恋に未練があるままいなくなったに違いないと、まひるならば察するはずです。

 

そしてwsbに参加することになった原因である、まひるの決着をつけるべき執着或いは未練とは、恐らく「華恋とひかり」の両方。

自分をしっかり持つことが出来るようになったまひるは真に他人を想えるようになったはずですが、それ故に自分の将来よりも2人のことが過度に心配だったのではないでしょうか。

そもそもなのですが、アニメ第5話にて、まひるのキラメキが「みんなを笑顔にすること」であると明示されていました。全ての観客を笑顔にする役者になることが、まひるの目指す役者像なんですよね。覚悟の度合いでなら、あの9人中トップクラスです。そういえば劇スタ冒頭の進路相談のシーンで、まひるは真矢、クロディーヌの後の3番目に面談していましたが、今思うとあれは、将来へ向かうにあたって、覚悟の度合いが大きい順だったのかなと。

 

まひるの執着が「華恋とひかりが心配なこと」だと仮定すると、話は遡りますが「皆殺しのレヴュー」のとあるシーンでの説得力が増します。

それは「皆殺しのレヴュー」開幕直後、ななが「舞」で舞台少女たちに斬りかかり、脚本家からキャストへのダメ出しを行うシーン。この時ななは、まひるの周りを一周して翻弄しますが、まひるに対しては斬りかかる刀に勢いがありませんでした。映画館の音響設備にもよるのでしょうが、鋒がぶつかり合った時の音が、まひるの時だけやたらと小さかったんですよね。斬りかかるという行為や、舞台少女たちからの攻撃を受け止め反撃する行為を「ダメ出し」と捉えるなら、なながまひるに対して行った「ダメ出し」は、他の子に対してよりも軽いものだったということになります。

つまり、まひるの未練が「他人を想いやる優しさ」故の未練なので、救いたい気持ちが同じであるななは、まひるに本気で斬りかかることが出来なかったと考えられるわけです。…まぁその優しさが原因で役者として足踏みしていることには変わりないので、「輪」を握り舞台少女として襲いかかるななには抵抗できませんでしたが。

 

閑話休題

不特定多数の観客全てを笑顔にすることが目標であるまひるは、同じ演者である特定の2人を笑顔にすることを目標より重要視していては、先に進めないわけです。

この優しき執着に決着をつける為に、まひるが出来ることはただ1つ……ひかりを救うことです。

悲しいことに、まひるは素の華恋を知りません。どんな言葉をかけても、華恋が本性を晒さない限り、まひるは華恋の真の理解者にはなれず、華恋を説得できないのです。そしてそのことを、まひる自身も良く分かってるはず。

華恋を救う為に、華恋の理解者であるひかりを救わなければなりません。

 

つまり、この競演のレヴューの終演条件は、

まひるがひかりから「恐怖」を奪うこと。

そして同時に、まひるからひかりに「華恋への想い」を託す…つまり、「恋という名の、華恋への執着」を奪わせることだったのではないでしょうか。

ひかりが抱える恐怖を、同じ恐怖をもって奪い取り、代わりに華恋への想いを込めた肩掛けのボタン…金メダルを授与する。それが、まひるの考えた脚本だったのではないかと。

 

競演のレヴューが始まり、まひるとひかりが対面すると、グラウンドを見渡せるくらい思いっきり画面を引いて俯瞰しているような構図になりますが、その時、グラウンドの中心に巨大な「T」がありました。大きさと位置的に、ひかりが最後ゴールテープを切って飛び込んだTとは別物です。

そして、ひかりを精神的に追い詰め、まひるがジャンプ台からひかりを突き落とすシーンで、ひかりを受け止めたミスターホワイトのクッションの下に、先程述べた巨大が「T」があったのです。

つまりまひるは最初から、ひかりをポジション・ゼロに落とすシナリオを立てていたということになります。確実にひかりを華恋のもとへ向かわせる為に。

 

劇スタ、華恋とまひるの会話シーンが一切無いんですよね。意図的に配置を分断して描かれていました。寮の中だったり、電車の中だったり。その位置関係も去ることながら、ひかりへ渡した金メダルに、華恋への恋心が込められているという仮定が真実ならば、まひるはある種、自ら望んで失恋したことになります。そうすることで、まひるは真に孤独となり、1人で舞台に立つ覚悟を完全に決めることができたのではないでしょうか。

アニメ第11話で、ひかりがいなくなって悲しむ華恋を、まひるは側で支えていました。それはきっと同室だからという理由だけではなく、最悪の場合ひかりの代わりになろうとする恋心が残っていたからだと考えられます。

しかし第100回聖翔祭にてフローラとクレールを演じ切った華恋とひかりの姿を見て、まひるはそこでようやく、華恋の隣に相応しいのは自分ではなくひかりだと納得し、胸に残った恋心の置き場所に悩んでいたのではないかと。

その置き場所をひかりの中に見つけ、想いを奪わせ、露崎まひるの"独壇場"が、ついに完成します。

 

宣誓!

私は 舞台に立つ喜びを歌い

舞台に立つ覚悟を踊り

強く 愛しく 美しく

演じ続けることを誓います

99期生 露崎まひる

夢咲く舞台に 輝け 私

 

愛城華恋の表向きの顔に恋してしまったり、

夢の為にその恋を自ら終わらせたり、

華恋の過去を踏まえると、まひるの恋は最初から勝ち目が無く、いわば負けヒロイン的ポジションであったのは確かですが…他のアニメも同様、負けヒロイン枠は強い女の子ばかりです。なにせ1人で生きられるし、その悲しみをバネにできるのですから。

 

そして、舞台少女露崎まひるは競技用ピストルを鳴らすその瞬間まで、ずっと笑顔で舞台に立ち続けます。観客を笑顔にする為に。

 

 

 

狩りのレヴュー

 

大場なな。

中学では同じ志をもつ仲間に恵まれなかった彼女は、聖翔に入学し、最高の仲間と出会い、そしてその仲間たちと築き上げた第99回聖翔祭に、誰よりも強い想いを寄せていました。

ようやく出会えた最高の仲間との、充実した日々。完成した舞台の上から見た、眩いキラメキ。

その光に魅入られたが故に、その先に…成長の果てに見える限界や失敗や挫折をななは恐れ、彼女はオーディションにて「再演」という手段をとりました。

みんなが「絶望の未来」を迎えないように、過去の栄光に縋りながら、ななは何度も何度も時間を戻し続けます。

しかし、時間が巻き戻っても記憶がリセットされない以上、ななの心は再演の度に摩耗していきます。

充実した輝かしい日々も、繰り返すことで次第に「当たり前」になってゆく。どんなに繰り返しても、最初の日々と景色には届かない。

きっと、ななも何度か挫けそうになったはずです。

繰り返す日々の中、その分他の人よりも色んな知識や経験が蓄積され、次第に大人っぽい言動が目立つようになっていったななですが、過去の栄光に縋る彼女の内面の方は成長するわけもなく…そんな子供な彼女が再演を何度も行えたのは、星見純那という唯一無二の存在があったからであることが、ロロロにて明かされました。

無論、ななが同じ時間を繰り返していることをその時の純那は知りませんから、再演中純那がななに向けて、何か特別な言動を起こせたわけではありません。そんな特別なことがなくとも、純那の「掴めるはずの可能性を犠牲にして、自分が掴みたいただ一つの"星"を目指す」その生き様に、ななは何度も心を救われたのでしょう。

 

大場ななという少女は、才能、体躯、内面、様々な長所を持ち、何でも器用にこなせるが故に、自分の意思で欲するただ一つのものがありませんでした。

対して星見純那という少女は、幼少期からひたすらに努力と経験を積み重ねてきた秀才で、その蓄積を活かして色んな可能性に手を伸ばせるにも関わらず、その可能性を全て捨て、舞台に立つことを選ぶ勇気を持っていました。

何者かになろうと励む秀才の姿とその勇気が、何者でもない天才を支えていたのです。

そしてその勇気を持つ舞台少女は、再演が途切れてしまった時も、ななの肩を抱き励ましてくれました。

いつだって純那の姿は、純那の言葉は、ななにとって大きな支えでした。

 

…しかし卒業という節目が近づくにつれ、周囲の煌めきに当てられた純那は、次第に劣等感を持つようになってしまいました。真矢やクロディーヌ、そして恐らく華恋の止まらぬ成長に、現状の知識や経験では埋まらない差を感じ、その純那の負の感情はそのまま進路志望先に表れることになります。

純那の第一志望は、早稲田大学文学部。凡人からすれば立派に見える進路ですが、舞台女優を目指す聖翔という場所において大学進学は回り道であり、それは純那の進路相談を受けていた櫻木麗先生の口ぶりからも読み取れます。聖翔なら早稲田大学の推薦枠くらいあってもおかしくないので、純那ならば余裕で入学できるでしょう。

今はみんなに追いつけないけど、大学で舞台を客観的に勉強することで、理解を更に深め、やがていつかはみんなに追いついてみせる、と。

「生まれながらにして偉大な者もいれば、努力して偉大になる者もいる」

シェイクスピアの…他人の言葉で己を鼓舞する純那でしたが、彼女のその姿に、ななは悲哀と落胆の眼差しを送ります。

 

人には運命(さだめ)の星がある

綺羅星 明け星 流れ星

己の星は見えずとも 見上げる私は今日限り

99期生 星見純那

掴んでみせます 自分星

 

かつてそう名乗り舞台に立っていた純那は、周囲の星(キラメキ)の眩しさで、自分だけの星を見つけられなくなってしまいました。

そんな地に足つかない彼女がどれだけ偉人(他人)の言葉を並べようと、ななの心には届きません。

かつて純那に励まされ、偉人の言葉にも興味を持ったななですが、一番ななが心に響いたのは純那の言葉でした。

 

「眩しかった…純那ちゃんが!」

 

悲痛な叫びをあげながら、ななは「輪」を振りかざし、弓の末弭(うらはず)で輝く宝石を砕きます。

舞台少女の武器の性質上、あの弓矢にも純那の心意が表れているであろうと考えると、恐らく弓は他者の言葉を借りて戦う純那を指し、矢は純那が放つ言葉を指すのでしょう。矢が無尽蔵に出現するのは、それだけ彼女が知識豊富だということです。

しかし純那の放つ矢はどれも、知識という名の「他人の言葉」であり、それがななを射止めることはありません。

ななは「輪」…役者としての自身が投影された方の刀で末弭の宝石を砕き、今の純那には役者として舞台に立つ資格が無いことを示しつけます。

更に追い討ちをかけるように、ななは三方に乗せた「舞」を純那に差し出し、それで自ら肩掛けを落とせと、自害を要求します。

「舞」は脚本家としてのななが投影された刀。その刀を用いて純那が舞台少女としての死を選ぶことで、脚本家大場ななが書いたシナリオから星見純那は退場するということになります。

「私のペンを貸してあげるから、せめて最後は自分の手で、その脚本の中で苦しむ星見純那を終わらせてあげてよ」

ななのそんな言葉が聞こえてきそうな演出でしたが、同時にこの行為は、ななの弱さ故でもあります。

ななは、自分の手では舞台少女星見純那を殺す覚悟がないのです。

 

大場ななは今まで、再演という形で舞台少女たちを救ってきました。

トップスタァになり他の舞台少女からキラメキを奪っても、時間を巻き戻すことで、奪ったことをなかったことにしていました。代償として「未来」という可能性が無くなるその優しき絶望の輪廻が、ななが取れる唯一の救済であり、それ以外に誰かを救う方法を、ななは知りません。

自分の言葉で「夢を諦めさせる」などななに出来るわけもなく、かつて自分を倒した華恋や、一度自分を救ってくれたあの頃の純那のように、誰かを励ます言葉も、ななは誰よりも根が子供故に持ち合わせていません。

ましてや、夢から遠ざかってしまうものの進路を自分で決めれてしまった純那に、自分で進路を決められないななが説得できるわけがないのです。

 

再演という救済法を失ったななは、今の純那がこれ以上苦しまないようにする為には、もう舞台少女であることを純那自らに諦めさせるしかないと考えました。

それは、他人も自分も傷つけることが怖い子供が出した、あまりに残酷なシナリオ。

 

熟れて堕ちゆく運命なら

今君に 美しい最期を

 

ここまでは、脚本家大場ななが立てたシナリオ(口上)通りでした。

「あーあ、泣いちゃった」という発言も「まだレヴューの最中なのに、舞台上で泣いちゃった」という意味に取れ、ななは純那を徹底的に追い詰めていきます。

 

「一番の誇りとは、失敗を経験しないことではなく、挫折の度に……挫折の、度に……」

 

偉人の言葉で己を励ます純那でしたが、孔子の至言を全て口にする前に、恐る恐る「舞」を…言葉を綴る為のペンを握りしめ…そして

 

「自分の言葉じゃなきゃ、駄目!」

 

純那は握り締めた「舞」の頭(かしら)を砕け散った宝石に叩きつけ、「舞」に自身のキラメキを宿します。

舞台少女たちの運命を決定付ける脚本を書く為の「舞」が、脚本家大場ななのペンが、純那に「奪われた」ことにより、その存在意義を書き換えられたのです。

 

人には運命の星あれど

届かぬ足りぬはもう飽きた

足掻いて藻掻いて 主役を喰らう

99代生徒会長 星見純那

殺してみせろよ 大場なな

 

今まで何度も壁にぶつかろうと、その度に知識と経験を以って何度も立ち上がってきた名脇役、それが星見純那でした。

かつて第99回聖翔祭の輝きに目を眩ませていたななと同じように、周囲の役者としてのキラメキに目が眩んでいた純那は、結果的にななから奪った「舞」…ななのペンななの言葉をきっかけに甦ります。

"口上"という自分の言葉を掲げる為に必要だった勇気を最後にくれたのは、他の偉人の誰でもない、親愛なる大場ななの言葉だったのです。

 

しかし子供であるななは、純那が甦ることを想定できなかった為、自分から奪った「舞」で必死に立ち向かってくる純那に恐怖し、狼狽えます。

あんなに責めたのにどうして立ち上がれるの?

どうして私の刀で戦えるの?

きっとななは、純那の進学に失望しながらも、役者の道から目を逸らす純那に対して同情もしていたのだと思います。

未来へ進むことが怖いのはななも同じで、進んだ先に絶望があると決めつけて怯えたからこそ、ななは再演を繰り返していました。ななは常に、未来に怯えている少女なんですよね。

本当になりたいものが決められないななと、本当になりたいものから遠ざかる純那。

形は違えど、未来への不安を秘めているという点で、2人は同列でした。同じ、未来に悩める少女であると。そうやって同列に並べることで、自分と純那はお互いに、今はまだ何者にもなることができない存在なのだと。

しかし、先に未来へと歩み始めようとする純那の姿にななは焦り、彼女に問いかけます。

 

「お前は何者だ?星見純那!」

 

その答えを示すかの如く、純那が踏み出した足の位置は…ポジション・ゼロ。

ななが用意した「星見純那がこれ以上苦しまないように役者の道を諦めさせる脚本」が「弱気だった自分を捨てて役者として新たに一歩を踏み出す星見純那が主人公の脚本」に上書きされた瞬間です。

 

「目が曇っているのはあなたの方よ!」

 

再演が途切れ、自分の将来への不安で、周りが、純那のことが、よく見えなくなっていたななに、純那はそう台詞を投げかけます。この台詞が眼鏡キャラから飛び出るっていうのが、堪らないんですよね。

何も言い返せないななを追い詰め、舞台装置により飾られた「舞」のはりぼては次々と真っ二つになり、遂に純那は、ななを見下ろす位置を取ります。

 

「この舞台に立っている私が!眩しい主役、星見純那だ!」

 

そして、主役の座を掴み取った純那の一閃が、ななのボタンを弾きます。

 

「脚本家としての大場ななの象徴」から「主役として舞台で言葉を紡ぐ星見純那の象徴」へと意味を変えた「舞」(ペン)が、「役者としての大場ななの象徴」である「輪」(剣)を制する。

レヴュー曲である「ペン:力:刀」とは、「舞」を握った純那と「輪」を握ったななの力比べを指す曲名であり、結果として「ペンは剣よりも強し」という言葉を体現する展開となりました。それは歌詞の方にも分かりやすく表れています。

 

決着し、背中合わせになり、それぞれの進むべき道を歩み始める純那となな。

 

「やっと終わったのかもしれない。私の再演が…」

 

みんなを絶望から守る為ではなく、結局ななは過去の栄光に縋り、自分が未来から逃げる為に再演を行っていました。

しかし再演が終わってもなお、見えない自分の将来に怯えていたななは、真にまだ再演の呪縛から解けていませんでした。ずっと依存し憧れていた純那と袂を分かつことにより、ななはようやく呪縛から解放され、独りで歩き出すことができたのです。

そして、独り立ちでできたななの背中に、純那が約束の言葉をかけます。

 

「いつかまた、舞台の上で」

 

一度「輪」を突き刺し穴を開けてしまった2人のツーショットの写真が、アニメ版第9話に登場する思い出の噴水に落ち、表面張力により開いた穴を限りなく無くしていきます。

 

ななは純那から弓を奪うことで、他者の言葉で戦おうとする純那を殺し、

純那はななから「舞」という名のペンを奪い、新たな役者としての姿を獲得すると同時に、ななの将来を役者の道の一本に絞らせました。

「狩りのレヴュー」とは、一般的な意味の「狩り」ではなく、責めて取り上げるという意味の「狩り」なのだと思います。

魔女狩り」などという言葉もありますが、この場での「狩り」とは「刀狩り」や「言葉狩り」という言葉が最も近しい意味を持つのではないでしょうか。

そこに本来の意味も掛けて、レヴュー冒頭で「檻」と「虎」というワードを出すのも秀逸な発想です。

 

お互いの象徴を奪い合うことで、一度道を分かち、そして再び舞台の上で相見えることを誓った、ななと純那。お互いを愛称ではなくフルネームで呼び合うのも、その別れの証。

まだまだ精神的に子供であるななは、純那との別れを悲しみ、そしてやはり未だに輝かしいみんなとの日々に想いを馳せ、まだ舞台から退場していないのにも関わらず涙を流します。

 

「やっぱり…まだ、眩しい…」

「…泣いちゃった」

 

お互い、舞台上で泣いてしまった未熟者同士。

最後はお互いに振り返ることなく、真っ直ぐに前を見つめて、笑顔で次の舞台へと向かっていきました。

 

純ななというカップリングの構造に関しては、テレビシリーズよりも劇場版の方が分かりやすく、とても感情移入しやすいものになっていたので、純なな推しの自分としては堪らないレヴューでした。

 

 

 

魂のレヴュー

 

99期生の主席と次席による最高峰のレヴューの火蓋が、遂に切って落とされました。

2人の実力をこれでもかと魅せつける為にも、他のレヴューシーンよりも明らかに多い作画枚数と、絵画をモチーフにした演出がひたすらに豪華で、正に圧巻と言った内容。

 

皆殺しのレヴューの方の感想で少し先に話してしまいましたが、クロディーヌの執着は当然真矢なわけで、その真矢とのレヴューデュエットに満足してしまっていたが故に、クロディーヌはwsbに参加することになりました。

 

では、真矢の執着とは何だったのでしょうか。

クロディーヌを意識していることは当然ですが、他の舞台少女たちのように、真矢がクロディーヌに対してマイナス的な感情を持っているとは到底思えなかったのは、初見時から分かっていました。というよりも、良い意味で言いますが、真矢とクロディーヌの関係は他のどの関係よりも一番単純で、それ故に美しかったんですよね。

香子と双葉、まひると華恋のような上下関係でも、華恋とひかり、ななと純那のような共依存の関係でもなく、ただ頂点に居座る真矢を、クロディーヌが追いかけるという「ライバル」という関係。

一点の曇りも無い、あの純粋で美しい構図が、真矢クロというカップリングの良さですが、それ故に真矢からクロディーヌへの執着というものが一体何なのか、あの強者故の立ち振る舞いからは想像もつきませんでしたが…

「完璧な存在であることを崩さない為に、その皮を剥がしにくる可能性があるクロディーヌと袂を分かつ」ことが、wsbにおける当初の真矢の目的であり、それがクロディーヌへの執着となっていました。これだけ聞くと執着というよりも、クロディーヌのことを真矢が危険因子として認識しているように聞こえますが、事実そうであるかのように、真矢はクロディーヌの立ち位置を「ライバルの役」と定義し、突き放します。

 

完璧な舞台女優になる為に、演劇界のサラブレッドである真矢は、自分という魂を捨て、限りなく空っぽの状態の人間になることで役を完璧に投影させるという、余りに人間離れしている上に悲しい手段を取ろうとします。

よって真矢にとって思い出というものは不要になり、卒業と同時にライバルとして常に近くにいたクロディーヌという存在も不要になるわけですが、そのような空虚な人間に、今さら真矢が果たしてなれるのかという話です。

真矢はポジション・ゼロを決める直前、明らかに未練のある表情を浮かべていましたしね。

 

テレビシリーズにて、クロディーヌの「どうして既にトップのあんたが、オーディションに参加するの?」という旨の質問に対し、真矢は「私、これでも嫉妬深いんですよ」と返します。欲しいものは全て手に入れる、それだけの欲があることを、既に自分自身が認めていたんですよね。

それを以前聞いたクロディーヌが、笑って一蹴するのも当然です。

この時悪魔役を演じていたクロディーヌが、舞台のルールは契約時に決められていたと真矢を出し抜きますが、今まで真矢に出し抜かれていたクロディーヌが、ここでようやく真矢を出し抜き、マウントを取ることができたのですよね。

完全にここからクロディーヌが優位に立つ構図となり、この後のシーンで口上を決める位置も、真矢はACT1の地の底から、クロディーヌはACT2の階段の上からとなっています。

 

またテレビシリーズでの会話ですが、真矢とのレヴューに負け、落ち込んでいたクロディーヌに向かって双葉が「弱気じゃねーか、天才子役!」と煽ったのに対して、クロディーヌが「成長すればただの人、ってね!」と返すシーンがありました。

自分を特別だと思っていたクロディーヌは、天堂真矢という存在によって価値観を壊され、挙句レヴューという場で更に格の違いを見せつけられたことにより、自分が特別なんかではないと、ただ努力を積んで誰よりも輝こうとする1人の人間であることを自覚したのですよね。

それはそのまま、テレビシリーズでの口上に現れています。

 

輝くチャンスは誰もが平等

だから

愛のダンスで誰より熱く

自由の翼で誰より高く

99期生次席 西條クロディーヌ

C'est moi, la star !

 

自分は特別だと驕っている人間が、チャンスは誰もが平等などと口にするわけがありません。クロディーヌは格上というものを知り、人として成長した結果、自分が特別でも何でもないことを理解したのです。クロディーヌは天才ではなく、人より多くの努力を積んだ秀才だったわけですね。だからクロディーヌは、テレビ版では同じく努力家の双葉との掛け合いが多く、劇スタでは努力を積んでもクロディーヌにセンスで負ける純那から、羨望の眼差しを向けられていました。

 

「成長すればただの人」

それは自分だけではなく真矢も同じだと、クロディーヌは新たな口上の中で主張するわけです。しかし、真矢が人であることを証明する為には、かつて自分がそうだったように、真矢にとっての上位存在を生み出す必要があります。よって、このレヴューでクロディーヌは、確実に真矢への下剋上を果たさなければなりません。

 

月の輝き 星の愛など

血肉の通わぬ憐れなまぼろし

爆ぜ散る激情 満たして今

99期生 西條クロディーヌ

今宵 きらめきで あんたを

 

テレビシリーズでの真矢の口上を、まるで真っ向から叩き壊すかのようなクロディーヌの名乗りを受け、自らを空っぽだと主張したはずの真矢は激怒し、名乗り返します。

 

輝くチャンスは不平等

千切って喰らえ共演者

愛も自由も敗者の戯言

天上天下 唯我独煌

99期生 天堂真矢

奈落で見上げろ 私がスタァだ

 

かつての口上を入れ替え、否定しあうことで、互いの存在を確かなものとするこの台詞回しは、この映画の中で使われた数々の奇抜な演出と比較すると単純なものではありますが、「ライバル」という強く美しい関係を彩る方法としては、むしろ洗練されていて効果的と言えるでしょう。

ただここで個人的に注目したいのは、お互いの口上から「主席」と「次席」が無くなっている点ですね。

口上から他者との格の違いを見せつけるワードが消えることにより、真矢とクロディーヌの間にもはや差など無いことを表しているのです。

それは決着直前で、お互いをフルネームではなく名前で呼び合うところからも窺えます。

あとはもう、想いを剣に乗せてぶつけ合うのみ。

 

お互いの実力はほぼ互角でしたが、天堂真矢という一人の人間の存在を証明する上で、このレヴューでの勝者がクロディーヌであることは必然だったでしょう。

とはいえACT4にて二人が塔の最上層へ吹き飛ばされた際、空中で一瞬身動きが取れず隙だらけだったクロディーヌの腕を、真矢が攻撃することなく掴み、手助けしたシーンがあることによって、決して真矢の強者としての株を落とさないという塩梅も素晴らしかったです。

 

「西條クロディーヌ、あなたは美しい」

 

決着となる最後の瞬間も、空虚な人間になろうとしていた自分を写し出す鏡をクロディーヌが割ることにより、真矢がクロディーヌを真っ向から見据えなければならないという構図を作り、加えて鏡を割ったことにより鏡の縁がそのまま額縁に見立てられ、真矢がクロディーヌの人間としての美しさに見惚れる……という、自分の言葉で書き起こすのがおこがましくなる程の、美しい演出でした。

 

クロディーヌが真矢から神の器たる「虚像」を壊し、それにより真矢がクロディーヌから「次席」というレッテルを剥がしたことにより、対等となった2人でポジション・ゼロを決め、終演。

人間性を失わずに済み、以前のような欲深さを持った真矢が

「では明日もまた、この舞台で」

「一回きりと、誰が決めましたか?」

と、自ら舞台の理を捻じ曲げる台詞を口にするのが、負けず嫌いで堪らなく愛らしかったです。

天堂真矢は、いつだって可愛い。

 

 

 

愛城華恋

 

さて、ここまでは各レヴューシーンにスポットを当てて長々と書き連ねていましたが、サブタイトル通りここからは華恋の過去回想シーンと、ラストのレヴュー「最後のセリフ」について書き殴ります。

 

正直、各レヴューシーンの奇抜な演出と同じくらい、いやシーンによってはそれ以上に、華恋の過去は自分の目には強烈に映りました。劣悪な家庭環境だったり、何か壮絶な過去が隠されていたり、別にそういうアニメにありがちな特殊過ぎる経験をしてきたわけではないですが、それ故に愛城華恋という少女の異質さが際立っていたようにも思えます。

 

まず、幼少期の華恋は引っ込み思案だった……初見だとそう感じるような描写から過去回想が始まり、この時点から既に自分は脳に電流が走ったような気分でした。

周囲に馴染めず、遊んでいる玩具も「みんなが持ってるから」というだけで特別好きで遊んでいるわけでもない。幼稚園の1つの学年には必ず1人はいそうな、ちょっと不出来で浮いてる子。このまま成長しても、聖翔で活躍するあの愛城華恋になるとは到底思えません。

 

そんな幼き頃の華恋ですが、引っ越してきたひかりに「特別な子」だと認識されたところから、全てが始まります。

4歳にして舞台に立つ教養のあるひかりは、きっとそれ程までに良い家庭環境の中で育ち、多くの人に囲まれながら成長してきたのだと思います。

だからひかりは、周囲の輪に溶け込む重要性を幼いながらに理解していて、転園先でもすぐに友達の輪の中に入っていました。

しかし、そんなひかりだからこそ、一人きりの華恋が不思議で仕方がなかった。友達と仲良くして当然な幼稚園という空間の中で、孤独に過ごしている華恋のことを、ひかりは不思議で堪らなかったんですね。決して馬鹿にしているわけではなく、華恋のその孤独に、他の子には無い特別な…ある種の強さのようなものを、ひかりは感じていたわけです。

これが小学校より上の年齢だと、決してそうはならないと思うんですよね。なんか教室の隅にいる根暗な奴、くらいで済んでしまうと思うんですよ。

けど幼稚園児というのは、分からない物事全部「不思議」と捉えて、一度は興味を持つお年頃なんですよね。

あまり良い例えではありませんが「お母さん、アレ何〜?」と小さい子が指を差し、その子の手を握る母親が「見てはいけません!」と言って対象から距離を取る、みたいなシーンを創作物でよく見かけますが、こういう時の対象人物は、大抵世間体的にはあまり良いと思われない言動を取っていることが多いですよね。

小さい子というのは、純粋さ故に「気持ち悪い」とか「陰湿」といった感情が芽生えていないが故に、世間的にはマイナス要素に見られてしまう言動でも「不思議」と捉えて、まずは興味を示します。

ひかりの華恋に対する興味というのも、それに近いものだったんですよね。

 

そして、ファーストコンタクトでひかりに挨拶を返してくれなかった華恋が、ようやく挨拶を返したことをきっかけに、ひかりは華恋と仲良くなってみたいという感情を抱きます。

 

しかし、公園で遊んでいる時に華恋と目を合わせただけで逃げられたこともあり、普通に話しかけても逃げられることを、ひかりは承知していたのでしょう。

よってひかりはお遊戯の時間ではなく、みんなで集まって音楽に取り組む時間を利用し、ここでも1人リズムがズレている華恋のカスタネットを代わりに叩くことで、ひかりはコンタクトを取ろうとします。

当然それに華恋は驚きますが、それをきっかけにようやくリズムを掴んだ華恋は、仕返しにひかりのカスタネットをリズム通りに叩きます。あの物静かな華恋がまさか仕返してくるとは思わず、一瞬ひかりもきょとんとしますが、この反応から「華恋が自ら好んで孤独だったわけではない」ことを理解したひかりは、ここで更に華恋カスタネットを叩きます。そしてまた華恋が仕返しにひかりのカスタネットを叩き、お互いのリズム…波長が合っていると確信した2人は、見つめ合い、絆を芽生えさせました。

 

その後、一人で過ごしていたのが嘘だったかのように、華恋はひかりと一緒に、そして他の子たちの輪に混ざって、集団で遊ぶようになります。

かけっこしたり、一緒にブランコに乗ったり、一緒に手を繋いで帰ったり…

印象的だったのはやはり、お弁当の時間に華恋がひかりのミートボールを横取りし、仕返しにひかりが華恋のたまご焼きを横取りするシーンですね。…2人の話とは全く関係ないですが、あの時ひかりの横に座っていた子が、自分の分も横取りされまいとお弁当を隠そうとした仕草とかめちゃくちゃ可愛いかったです。

 

ここまでの流れで、華恋という女の子は、引っ込み思案で孤独な子だったわけではなく、ただ友達と足並みを揃えるきっかけが無かった子であることが分かります。

シーンは少し飛びますが、愛城家のリビングにて、華恋母とその妹のマキが、華恋について話している場面がありますが、このとき華恋母が

「華恋って引っ込み思案なところがあるでしょ?」

って言ったのに対し、マキが

「そう?」

と返します。

後に華恋がガラケーを持った際に、マキのアドレスを「マキちゃん」と愛称で登録していることを踏まえると、華恋にとってマキもまた気の許せる人間の1人であることが読み取れますから、華恋はマキに対してよく明るい表情を見せていたのだと推測できますね。

つまりこの時の会話は、華恋母は「世間体での華恋の立ち振る舞い」を話していて、マキはそれを「華恋の性格」についての会話と取り違えて「そう?」と返したわけです。

こればっかりは母親ゆえなのですが、親が子供のことを考える上で、周囲との付き合いを念頭に置くのも当然のことですからね。どうしても華恋の幼稚園での生活が気になりますから、華恋に「今日はどうだった?」という会話を普段から投げかけるわけです。それに対して華恋が「友達と〇〇した」と、ひかりと出会うまでは答えられなかったわけですから、それは華恋母が華恋に対して「引っ込み思案」という印象を強くしてしまっても仕方ありません。

 

では、華恋が友達と足並みを揃えるきっかけが無かった…友達を作ることが出来なかった原因とは、一体何だったのでしょうか。

それは、華恋が趣味というものを一切持っていなかった、本当に好きと言えるものが何も無かったからです。

他の子は色んなものに興味を持って、色んな遊びや会話を楽しんでいるのに、何も興味を持っていない華恋は、その輪の中に入ることができなかったんですよね。ひかりが最初、華恋に感じた孤独感とは、性格から来るものではなく、何も興味をもっていない「空虚さ」から来る孤独感だったわけです。

 

だから華恋は、気が許せると分かったひかりに対して「奪う」という手段でコンタクトを取った。自分には何も無いから、何でも持ってると感じたひかりに対して「奪う」という行為に及んだのです。

 

カスタネットでのコンタクトもそう。

お弁当を取り合うのもそう。

全て、奪い合いによって成立していた絆だったのです。

 

そしてこの「奪う」という行為が、後に「歌って踊って奪い合う」舞台少女としての本質に結びついていきます。

華恋は生まれながらにして「舞台少女」としての資格を持っていた…というより、華恋は他に何も無いから「舞台少女」になれなければ生きていけない運命にあったのです。

 

キラミラという玩具が出てきますが、あのアイテムは恐らく、周りのみんながやってるから親に強請(ねだ)った玩具ではありません。もしそうなら、ひかりと出会う前からキラミラの話題で誰かと友達になっていたはずです。そうではなく、華恋にとってのキラミラとは、テレビか何かで存在を知り、それを持っていれば幼稚園児として最低限の居場所を作ることができる、いわば逃げの口実として欲しくて強請ったアイテムだったと考えられます。

 

しかしそのアイテムも、ひかりとの出会いで少し存在意義が変化します。

ひかりをきっかけに、ひかり以外にも話せる子が増えた華恋は、孤立しても生きていられる為の小道具でしかなかったキラミラを、友達との話題の種として扱えるようになります。まぁ恐らく、華恋から「キラミラ持ってるよ〜」と話し出したわけではなく、たまたま華恋が公園のベンチに座ってキラミラで遊んでいたところを、キラミラが好きなあのポニテの子に見つかった、という流れなのでしょうけど。

 

そうやって、次第に「普通の少女」として過ごすようになる華恋の運命が、ひかりによって「奪われる」日が訪れます。

 

華恋の空虚さを何となく見抜いていたひかりは、その華恋の穴を埋める為、ある日自分が大好きな「舞台」を華恋に紹介しようと考えますが、キラミラが既に華恋の空虚さを埋めてしまっていると感じて、一瞬戸惑います。

そこである日、公園で遊んだ後の帰り道、本当にキラミラがそこまで華恋にとって必要なものなのか気になったひかりは、華恋に問います。

 

「好き?」

「え?」

「それ」

「あー…キラミラ?うーん…わかんない」

 

ここの会話の何が素晴らしいって、幼稚園児らしいたどたどしさを出しつつ、同時に2人ともキラミラに対して一切興味がないことを示唆しているんですよね。この劇スタの会話の中でも特に好きな日常会話シーンでした。

 

そして、その華恋の反応を見て、ひかりは満面の笑みを浮かべます。

「まだ華恋ちゃんには、本当に好きってものが無いんだ」

「キラミラに興味が無い私でも、まだ華恋ちゃんと友達でいられるかもしれないんだ」…と。

しかし、幼稚園児とは思えないくらい物事に対して無関心な華恋は、ひかりの熱烈なアプローチに対しても「えー?」「わかんない」という言葉しか返せません。結局ひかりの強引さが勝り、根負けした華恋は、ひかりから手紙風に折られた舞台「スタァライト」のフライヤーを貰います。

 

そして2006年5月下旬、舞台「スタァライト」を目の当たりにし、目を輝かせる、華恋とひかり。

ひかりとってその舞台は、手が届かない程輝かしい場所。大好きだけど、自分では目指すことができない、遥かなる高み。ひかりはこの舞台を華恋と一緒に見ることで、みんなとは違う楽しみを自分は持っていると華恋に自慢したいだけだった。他でもない、みんなとは違う、特別な存在である華恋に。

しかし、そんなひかりの考えとは裏腹に、華恋にとってその目の前の光景は、自分の空虚な心を趣味として埋めるだけではなく、あの場所に立ちたい、あの演者になりたい、あの演者のいる場所(ポジション)を「奪いたい」と思える程のものでした。

 

「いこう、ひかりちゃん!あの、ぶたいへ、ふたりで!」

 

1人では届かないけど、華恋となら。

今まで見たことのないくらいに輝く華恋の目を見て、ひかりも勇気を振り絞ります。

 

スタァライトをきっかけに、

ひかりは華恋の「普通の女の子として生きていく日常」

華恋はひかりの「夢の舞台に立つことを夢のまま終わらせる日常」

お互い奪い合い、それを「運命の交換」という綺麗な言葉に仕立て上げたのです。

 

こうして、2人は運命という言葉を信じて歩き出すわけですが…ここで華恋とひかりの間で、1つの齟齬が発生しています。

それは「2人でスタァライトの舞台に立つ為に、ひかりちゃんが私をあの舞台公演に誘ってくれた」と、華恋が勘違いしているということです。

この勘違いを盲信した幼き華恋は、頭の中で「ひかりのいる場所が、私の居場所」…すなわち「ひかりが私にとっての舞台」という風に、どんどんひかりへの想いを強くしてしまったのです。

 

そしてこの盲信が、夢追い人として覚醒したはずの華恋を苦しめていきます。

 

それから7年、日々演劇に力を注ぐ華恋は、小学6年生のある日、演劇発表会で主演として舞台に立ちます。確実に役者として実力をつけている華恋ですが、ひかりとの約束を果たす為には、まだ満足できないといった様子。

しかし、その運命の相手であるひかりの現状について一切の情報を遮断する華恋に対し、マキがスマホで何か調べながら問いかけます。

 

「ふーん…怖いの?」

 

運命という綺麗な言葉を盾に、ひかりと格差が広がっているかもしれないという恐怖を心の片隅に抱えていた華恋は、マキに対して反論してみるものの、自信なさげに言い淀みます。

 

「なら、聖翔くらいは目指さないとね」

 

この時マキは、ひかりの母から送られてくる手紙から、ひかりが通っている小学校を調べ、ひかりの実力を察したのでしょう。そして、華恋がそのひかりと対等になる為には、聖翔に入学するしかないと悟り、華恋に提案します。

 

「聖翔…聖翔?!」

 

この華恋の反応からも、聖翔音楽学園という場所がどれだけハイレベルかが良く分かります。そして、描かれていないものの、ひかりが通っていた小学校もかなりとんでもないところだったことも、同時に感じ取れますね。

かくしてマキの助言もあって、聖翔音楽学園を目指すことを決めた華恋は、これまで以上に努力を積んでいきます。

 

さらに時は進み、中学3年になった華恋は、友達とハンバーガーチェーン店で修学旅行のしおり作りに参加していました。

ここのシーンも本当に大好きで、男子という存在が、また良い味を出しているんですよね。

男女6人でテーブルを囲んでいるのに、男子と女子それぞれで駄弁ってるところとか最高で、修学旅行という学校行事ゆえに仕方なく男女で集まった感がすごく滲み出てて、かなりリアリティのある構図と台詞回しでした。この時、華恋がガラケーからスマホに買い替えたというのも、この後のシーンでポイントになっています。

そして、華恋がボイトレに行くと席を外し、後から来た女子が華恋の席に着くと同時に、男女分かれて談笑していた空間が、華恋という存在をきっかけに変化します。

(ここの華恋が退席→友人が華恋のいた席に着席という流れも、華恋が送るはずだった普通の日常をひかりに奪われたことを示唆していますね)

 

「愛城って、なんかすごいところ受けるんだろ?」

「そう!聖翔ねー!倍率30倍だって!」

「うへぇ〜!」

 

「すげぇよなぁ愛城。ちゃんと将来のこととか考えててさ」

「私なんて…まだ進路のこととか、何にも考えてないのにー!」

 

この辺りの会話からも、華恋が男女問わずいかにみんなから好かれているかが分かりますよね。少なくとも、中学時代の華恋はみんなから慕われるスーパーエリートで、テレビシリーズ序盤から受ける印象とはまるで別人のようです。

そんな超優等生の華恋を、みんなが応援し、頼りにしている中、1人の男子が呟きます。

 

「…そうかな。愛城だってさ、悩みとか、なんかあるんじゃないの?」

 

この男子生徒にも、何か追いかけている夢があったのだろうかと、少し考えてしまいました。もしくは、華恋のことを普段からよく見ていた…淡い恋心を寄せていたのかもしれません。

中学生なんてまだまだ若い歳で、他人が夢を追いかけていることに対して、応援することはあっても、心配なんてそうそうできませんよ。少なくとも、どんな理由であれある程度意識していないと無理だと思います。ましてや男子です。普段から一緒にいたとは思えません。外見だけで妄想すると、彼も勉強ができるタイプの見た目をしていましたから、普段から華恋の学年順位を気にしていたり、それこそ想いを寄せていたのでしょう。

彼のこの発言は、華恋の「ひかりへの盲信と、それによる無自覚な不安」が更に色濃く感じ取れる絶妙さがあって、かなり好きなシーンです。

 

この時、華恋が座っていた席に後から着いた女子が、ペーパークラフトの東京タワーを思わず落としてしまうのが、憎い演出でしたね。

加えて同じタイミングで、電車に乗った華恋の描写が入りますが、このとき車窓越しに映った東京タワーが、ひかりと運命を交わしたはずのあの場所よりも遠くにあり、更に雨でガラスが曇っているせいで東京タワーがぼやけているというのが…ただの日常風景に、なんて残酷な意図を乗せてくるんだろうと、感心すると同時に軽く凹みました。

そして、このぼやけた東京タワーを目にした華恋は、ついにその抱えた不安を曝け出します。

 

ボイトレから帰宅したその日の夜、華恋はベッドに潜り込み、昼間電車に乗る直前で調べようとしてやめた「神楽ひかり」の名前を、魔がさして検索してしまいます。年齢的にスマホを持つことが自然な反面、スマホを得たことにより、今まで守ってきた自分ルールに気の緩みが生じてしまったわけです。子供ですし、仕方ないことですよね。

しかしそれにより、とうとう華恋はひかりとの実力差を目の当たりにしてしまい、聖翔音楽学園を目指す自分よりも遥か高みにいたひかりに、劣等感を覚えてしまいます。

ひかりちゃんと本当に同じ舞台に立てるのか。

本当にあの時の約束は、運命だったのか。

疑心暗鬼になる華恋ですが、他に好きなもの、なりたいものなど何も無い、元々空虚な少女である華恋が、今更役者の道を諦めることなどできるわけがありません。

そんな葛藤を抱きながら、華恋は少しでもひかりに近づきたくて、いつしか華恋はひかりの真似をするようになります

とはいえ、華恋が知っている神楽ひかりという少女は幼少期の頃まで。それでも華恋は、ひかりを傍に感じる為に、ひかりのような立派な役者になろうと、幼き頃のひかりを無意識に演じるようになっていきます。

 

そう考えると、テレビシリーズの方で、よくよく考えると違和感のあったシーンが、いくつか腑に落ちるようになります。

 

まず一つ目は、華恋の私生活と学園生活。これは前述の「競演のレヴュー」でも触れましたが、聖翔に入学してからの華恋は、幼少期のひかりの仮面を被った状態なので、どこか言動が幼い印象を受けます。例えば「ノンノンだよ」という台詞ですが、あれは小6の頃に初めて舞台で主演を任された時の台詞でした。ひかりの台詞ではありませんが、華恋は精神年齢を下げて学園生活を送っているので、あの「ノンノンだよ」という台詞を「幼稚園児から見た、小学6年生の演じる役のカッコいい決め台詞」だと考えているのかもしれません。

第一話冒頭にて、寝起きの華恋がひかりと交換した王冠のヘアピンを付けて、目が覚めるといったシーンがありますが、恐らくあのヘアピンを付けるという行為が、今日も一日、華恋は幼少期のひかりを投影して暮らしている、というメタファーなのでしょう。

 

もう一つ腑に落ちる点が、謎な台詞の数々です。

特に、やはりここでも第5話が顕著でしたね。

「嫉妬のレヴュー」にて、まひるに「また私に、お世話させてよ!」と言われた際、華恋は「そう…思い出したの!」と返します。あれ?常にひかりとの約束は覚えていたんじゃないの?という疑問が浮かびます。

華恋は実際、ひかりとの約束を忘れたことはありません。しかし、中学時代にひかりとの格差を知った華恋は、ひかりとの約束を「運命」ではなく「幼き頃の良き思い出」くらいに考えるようになってしまっていたわけです。心のどこかで、最悪叶わなくても仕方ないと。ひかりちゃんはもっと凄くなっちゃったからと。そして、その「思い出」となってしまったものが、ひかりが転校してくることによって「運命」に戻ったので、華恋はまひるに「思い出したの!」という言葉を選んだのではないでしょうか。

 

他に謎といえば、これまた第5話と、そして第9話での発言です。

第5話「嫉妬のレヴュー」にて、まひるちゃんのことを「朗らか」と表現しようとするも、まるでその単語を知らない、忘れてしまったような風に言い淀むシーンがありました。

同じように第9話では、第100回聖翔祭の台本を読み、登場する女神を「高飛車」と表現しようとしますが、これにも言葉を詰まらせて「たこばしゃ?」と妙な言葉を使います。

これはあくまで自分の感覚なのですが、聖翔という国内でもトップクラスの学園に通っていて、中学時代の描写でも優等生だったことが良くわかる、あの愛城華恋が、朗らかや高飛車なんて比較的簡単な言葉を、知らないわけがないだろうって話なんですよ。

なんか半分くらいまで出ちゃってる辺り「本当は知ってる言葉だけど、まるで忘れてしまったようにわざと言い淀んだ」風に聞こえるんですよね。

つまり、この時の華恋は何度も言うように「幼き頃のひかり」という仮面をかぶっているので、朗らかや高飛車といった、園児には少し意味を理解するには早いレベルのワードには、わざとうろ覚えな風を装ってるわけです。

加えてこの、朗らかと高飛車というワード。幼き頃のひかりの性格に当てはまるんですよね。

ひかり本人と再会したことにより、華恋は無意識下で被っていた「幼少期のひかり」という仮面を、「ひかりと華恋」の2人でスタァライトする為に外さなければならなくなります。しかし、その被りものの性格が定着している華恋が、そう簡単に仮面を外せるわけもありません。けど、外さなければ「ひかりと華恋」の2人になれない。そんな自己矛盾が発生し、華恋はそのワードをうろ覚えであると主張することによって、過去のひかりの性格もうろ覚えであると自他共に言い聞かせ、自分は決して昔のひかりを真似しているわけではないと、無意識下で自己暗示をかけていたのではないでしょうか。

 

と、言う風に「幼少期のひかりの仮面」を華恋が被っていたという仮説を立てると、テレビシリーズでの華恋の解像度が一気に上がるんですよね。

 

ここまで華恋の過去について、劇スタのシーンを思い返しながら書きましたが…愛城華恋のここまでの人生を語る上で「舞台」と「ひかり」という存在があまりに大き過ぎる…というか、舞台少女愛城華恋の中には、本当にそれしか無いんですよね。

しかも華恋の中では、その2つが強烈に結びついている為、その「ひかり」とともにスタァライトを演じた時点で、舞台少女愛城華恋の人生は終わるわけです。

故に、先のオーディション、そして第100回聖翔祭にてスタァライトをひかりと共に演じ切った、舞台少女愛城華恋は、もうキラメキが残っていない王冠のヘアピン(2人でスタァライトするという誓いのメタファー)を再び燃料として舞台に立ちますが、ひかりが「次の舞台へ向かう」と言った直後、自分には次に目指すものが無いことを悟り、死を迎えます。

 

ひかりにとって愛城華恋は、元々好きだった舞台で、更なる高みを目指すきっかけとなった存在であり、きっかけでしかない。

そしてそれは華恋も同じだと、ひかりはひかりで華恋のことを誤解していたわけです。

だからひかりは、自分がファンになってしまいそうになるくらい華恋はもう十分凄い役者だから、自分がいなくても大丈夫だからと決めつけ、ロンドンに逃げましたし、

wsb終幕にて、その華恋から今度は逃げない為に、そして華恋と対等になる為に、華恋と並ぶのではなく、突き放し、1人で未来へ向かおうとしました。

 

「私がいると、かれん すぐ甘えるから!」

 

あの時と同じように、突き放しても、きっと華恋なら一人で頑張れるから、と。

 

…結局、初めから2人の運命は、幼き頃故の齟齬によって成立していた、歪な形の約束でした。そもそも2人は出会った時から「奪い合い」という方法で繋がっていたのですから。

 

「それはこの舞台の台詞?それとも、あなたの思い出?」

 

華恋の中には本当にひかりしか無いことを、ひかりは華恋が死ぬ瞬間まで知る由も無く…ひかりは舞台少女愛城華恋の亡骸を抱き涙します。

 

それでも、例えお互いに齟齬があったとしても、あの時交わした約束は「運命」なのだと、そう信じて、ひかりは最後の曲を歌い始めます。

 

お願いよ 華恋 目を覚まして

二人の約束 思い出して ねぇ

信じているの ここでさよならの

運命じゃないわ

 

「スーパースタァスペクタクル」の歌い出しの「華恋」って部分、あまりに感情がこもっていたので「お願いよ 目を覚まして」という歌詞の間に、ひかりが思わずアドリブを聞かせてたんだと最初は思ってたのですが、

アルバムを買い歌詞カードで確認したところ、ちゃんと歌詞の一部だったんですね。

つまり、ちゃんと舞台少女として泣かずに歌詞を歌い切らなければいけないところを、思わず声が震えてしまったという風になるわけです。双葉じゃないですけど、ズルい、ズルいズルいって思わず涙目で言っちゃいたくなります。

 

そして、ひかりは華恋を再び舞台に立たせる為(再生産させる為)、今度は幼き頃のひかりではなく、舞台少女神楽ひかりとして、舞台「スタァライト」の手紙(フライヤー)を舞台少女愛城華恋の亡骸に添えて、東京タワーから落とします。

 

舞台少女とは、女の子の普通の日常や思い出を燃焼して生まれます。

これまでの舞台少女愛城華恋は、ひかりと交わした約束を媒介にしており、その約束のモチーフである王冠のヘアピンを溶鉱炉に落とすシーンが、アタシ再生産の変身バンク的な演出に組み込まれていました。

しかし、それは「ひかりと2人でスタァライトする為に生まれた舞台少女愛城華恋」の再生産であり、それが叶い、全てを失った華恋は、もうヘアピンを媒介に再生産することができません。

では、次は何を燃やすのか。

 

あなたは私 私はあなた

過去は未来 未来は今

燃やせ燃やせ 燃やし尽くして

次の舞台へと

 

華恋が燃やすもの、それは…今日までの自分、その全てです。

ひかりを盲信した幼い頃の自分。

ひかりと肩を並べて、あの約束へと向かえていると思っていた自分。

ひかりの実力を知り、約束をただの思い出へと変えてしまっていた自分。

ひかりと舞台に立つ為に費やしてきた時間と、その為に捨ててきた普通の日常。

それら全てを作り出したきっかけである、スタァライトの手紙(フライヤー)。

ひかりと約束を交わしてから積み上げてきたもの全てを燃料に、華恋は列車で、ひかりの待つ舞台…wsb最終幕へと向かいます。

ひかりと並んで演じる為ではなく、真っさらな姿で、ひかりと向き合い演じる為に。

(ちなみにここで登場する列車と、再生産までの一連のシークエンスですが、恐らく元ネタは古川監督が以前脚本を務めた「輪るピングドラム」で繰り返し描かれていた"生存戦略"のシーンですね)

 

「ここが舞台だ、愛城華恋!」

 

「T」を象った棺桶が開き、再生産を果たした舞台少女愛城華恋。

生まれ変わった彼女にはもう、ひかりという存在は必要ありません。

華恋はこのとき初めて、自分の為だけに舞台に立てたのです。

 

星屑落ちて 華は散っても

キラめく舞台に 生まれ変わる

新たな私は 未知なる運命

新たな私は 未知なる戯曲

愛城華恋は 舞台に一人

愛城華恋は 次の舞台へ

 

そして、全てのしがらみを振り払い、一人で舞台に立つ覚悟を決めたのは、ひかりも同じでした。ひかりもまた「華恋と並んで立つ為に過ごしてきた日々」を燃やし、キラメキを再生産します。

 

私を照らせ 全てのライトよ

私に見惚れろ 全ての角度で

今の私が 一番わがまま

今の私が 一番綺麗

舞台の上に スタァは一人

神楽ひかり 私がスタァだ

 

お互いの口上から「2人」や「約束」といった、華恋とひかりの今までの関係を表す言葉が完全に消えているのが、切なくもあり、胸が熱くもなり……何度見ても、華恋とひかりの口上をぶつけ合うシーンは、とても一言では言い表せないくらいの感情の波に押し潰されそうになります。

ある種、卒業式を見ているような感覚。

この終幕「最後のセリフ」だけでなく、このwsbで行われてきたレヴュー全て、別れという…いやもっと大袈裟に言うなれば、関係性の「破壊と再生」というテーマが含まれているんですよね。

そして、その「破壊と再生」に「奪う」という手段を用いるのが、このwsbという舞台公演のルール。

 

かつて、運命の交換という幼き頃の思い出を燃料に立っていた2人の舞台少女は、今度は「運命の交換という幻想に囚われていた日々」を燃料に、何を奪い合うのでしょうか。

 

綺麗で 眩しくて 痛くて 悔しくて

奪って 奪われて 切ないよ

見惚れて 近づいて 惹かれて 離されて

あなたに夢中になるの

 

2人が奪い合うのは…これから未来永劫お互いに奪い続けるのは、お互いの、

 

しかしこの公演において、実力で勝っていたのはひかりの方でした。

ひかりの放つ宝石のようなキラメキを受け、舞台少女のキラメキの具現化である華恋の剣が、ひかりのキラメキ…しかもその一部分に耐えきれず、砕け散ってしまったのです。

(そして華恋の剣が折れたことにより、ひかりが短剣であるというハンデを無くすことで、キラメキの大きさ以外の戦力を対等にするという素晴らしい展開)

 

「貫いてみせなさいよ。あんたのキラメキで」

 

ひかりの姿に見惚れ、恐怖した華恋ですが、僅かに残ったキラメキ全てをひかりに向けて、最後に美しき一閃を放ちます。

…それでも、相手の身体を、心を貫いたのは、ひかりの剣の方でした。

結果はひかりの完勝。それを証明するかのごとく、ひかりは鋭い眼光を、至近距離で華恋に向けます。

しかし、キラメキで圧倒されても尚、華恋はひかりから目を離すことなく、涙を流しながらも見つめ返します。なぜなら生まれ変わった華恋には、今まで持ったことのない……持てるはずのなかった感情が芽生えていたからです。

 

「私も…ひかりに、負けたくない」

 

それは、ひかりを運命共同体としてではなく、一人の舞台少女として見つめることができた、華恋の成長を表す「最後のセリフ」…「ひかり」と呼び捨てし、これまでのひかりに甘えていた自分を、関係を、華恋は自ら壊すことにより、真に独立することができたのです。

 

その華恋の「最後のセリフ」と共に、2人の運命の象徴であった東京タワーは崩壊し、大展望台より上のタワー上部が、巨大なポジション・ゼロへ突き刺さります。

このシークエンスも、2人の関係のリセットを表していますね。

二人の運命という名の幻想、その象徴である東京タワーを破壊し、それをポジション・ゼロという位置に突き刺すことで、幻想によって築き上げていた関係値をゼロにする、というわけです。

 

そしてその役目を担ったのはひかり(恐らくその運命という名の幻想を、華恋に持ちかけた張本人であるひかりの贖罪も込められていた)…なのですが、このwsb終幕のタイトルは「最後のセリフ」

キラメキの大きさで勝り、ポジション・ゼロを決めたひかりが事実上の勝者なのですが、この幕のタイトル通り最後の台詞を決めたのは、華恋の方です。

ポジション・ゼロの直後、ひかりは清々しく笑みを浮かべますが、あれだけ圧倒したのにも関わらず、気圧されずに最後まで演じきった(最後の台詞をもぎとった)華恋に対して、ひかりはきっと感服したのでしょう。その証拠として、ひかりは自らボタンを弾き、肩掛けを天高く舞い上がらせます。

言うなれば、このwsb終幕「最後のセリフ」は、試合に勝ったのがひかり、勝負に勝ったのが華恋、という結果になるのではないでしょうか。

 

そして、全ての幕が降り、舞台少女たちの肩掛けが空に消えていきます。それは、レヴュースタァライトという舞台公演…このアニメ作品の終わりを意味します。

 

「演じきっちゃった。レヴュー、スタァライト。私いま、世界で一番からっぽかも」

 

かつて何に対しても興味を持たず、空虚であった少女、愛城華恋。

ひかりとの幻想を打ち払い、自分を見つめ直すことができた華恋は、自分が元々からっぽな人間であったことを、ようやく自覚します。

しかし、ひかりとの幻想を失っても、その幻想によって培われた"あるもの"が、華恋の中には息づいているのです。

それは…「愛」する舞台に、みんなの心を奪う「恋」の「華」を咲かせたいと願う心。

そしてそれが、新たに生まれ変わった愛城華恋の、スタァライト

 

「なら、見つけにいきなさいよ。次の舞台を」

「……うん」

 

愛城華恋は、次の舞台へ。

 

 

 

トマト

 

最後に、劇スタ内のキーアイテムともいえるトマトについて触れてみたいと思います。もうさっき華恋の綺麗なセリフで〆たじゃーん、長いしもう良いよ…ってそんなこと言わずに、せっかくなので後もう少し私の稚拙な文章にお付き合いください(懇願)

 

トマトで始まり、トマトで終わった映画でしたが、やはりキリンの発言をそのまま受け取るのが1番分かりやすいかなと思います。

今回の映画のキリンは、かの有名な画家アルチンボルドの画風を意識した、野菜や果物により構成された姿で現れるシーンが多々ありました。そしてそのキリンから転がり落ちたトマトが、舞台少女たちに燃料として分け与えられるわけですが…

キリンとはそもそも、首を長くして舞台少女たちの出番を待っている、我々観客の代役者だったわけですね。

つまりあのトマトとは、我々観客が舞台少女に向ける熱だったり、声だったり、そういった熱量が具現化したものであると考えられます。

同時に、テレビシリーズでの「星罪」と「星摘」のような言葉遊びになりますが、

「食材」と「贖罪」も掛けられていそうです。

というかこの掛詞もテレビシリーズ最終話にて、鍋料理を使って表現されていましたが。

 

 

トマトを齧るという行為に、観客からの声援に応えるという意味だけではなく、それぞれの舞台少女たちが抱えていたものを贖罪するという意味も掛けられていたのでしょう。

 

ただそれならば、別にトマトでなくても他の食材で良いのでは…となりますが、やはりそこは単純にトマトという野菜が、赤くて、果肉と水分の両方を兼ね備えている為、舞台装置として非常に便利だったからと考えるのが自然だと思います。

トマトを心臓と見たて、破裂させることで死を表現したり、トマトジュースで血飛沫を再現したり。あと、果肉と水分を十分に兼ね備えていることから、舞台少女の「渇き、飢えた野生的な本能」を潤す象徴として合致している点も大きいです。

 

と、いうことを踏まえて、劇中で登場したトマトが何を指していたのか、ざっと並べてみます。

 

タイトルコール直前のトマト→舞台少女愛城華恋の心臓

 

決起集会後舞台少女たちが齧ったトマト→観客たちの熱や声、少女たちが贖罪を示す為の食材

 

華恋とひかりの回想シーン直前、ポジション・ゼロを挟んで並ぶ2つのトマト→舞台少女華恋、ひかりの心臓(終幕「最後のセリフ」開演前に置かれていたものと同じもの)

 

ロンドンの駅構内の広告に描かれたトマト&wsb会場の駅構内の広告に描かれたトマト→ひかりが舞台に上がることを望む観客からの熱や声

 

キリンが燃え落ちる直前、ひかりに授けたトマト→まひるに肩掛けを落とされ、もう一度ひかりに舞台へ上がってほしいと願う観客たちの熱や声

 

……という感じだと思いますが、今わざと紹介しなかったトマトが、あと2つあります。

なぜわざとその2つを外したかと言うと、それを紹介する前にトマトの花言葉というものを念頭に置いてほしいのです。

 

トマトの花言葉、それは……完成美、そして感謝です。

 

トマト好きな人間である自分は、この花言葉を劇スタ初観賞以前から知っていたのですが、こんな風なトマトの使い方をしてくれるアニメがあるのかと、本当に感激しました。

というわけで、その花言葉を踏まえて残り2つのトマトについてお話しますね。

 

まず冒頭の、映画が開始してすぐに弾けるトマトですが…あれはきっと「テレビシリーズ少女歌劇レヴュースタァライト」という、完成されたものを今からぶち壊すぞ、という意味だったのではないかと。

確かに前述した通り、華恋の言動が劇場版を見ないと不可解なのでは?という点はありましたけど、テレビシリーズはあれでかなり完成されていたじゃないですか。全12話とは思えない情報量を、本当に丁寧に纏めていたと思うんです。

で、劇スタを観てもらった通りなのですが、この映画では、テレビシリーズで培ってきた関係性を一旦全部ぶち壊すわけですよ。

つまりあの冒頭のトマトは、テレビシリーズの「築き上げてきた関係性」「運命という綺麗な言葉のテーマ」を象徴していたのではないでしょうか。

 

そして、もう一つのトマトは…最後の、ひかりが華恋に投げ渡したトマトです。

これは「ひかりが華恋には渡す」というシークエンスも重要で

「新たに生まれ変わった、舞台少女・愛城華恋の完成への賛美」

「華恋、今まで本当にありがとう」

という意図が込められているのではないかと。最後を飾るに相応しい演出だと思いました。

 

 

というわけで、気づいたら45000字を越える、誰が読むんだこんなのってくらいダラダラ長い感想になってしまいました。

冗談抜きで、稚拙でも良いから自分なりに、ヤバい文量になっても良いから一旦書き記して置きたい、そうしないとひたすら頭の中がスタァライトのことでいっぱいになって、他のことに手が回らない…って思ったんですよ。実際ちょっと今、すっきりしてますw

 

最初の方でも書きましたが、本当に冗談抜きで、劇スタは自分の心に刻まれたアニメ映画の最高傑作でした。

まさかブシロードががっつり企画に携わってるアニメで、ここまで感動させられる日が来るなんて思ってもみませんでした。どうしてもブシロードのアニメは企画側の「コンテンツに貢がせてやる」感が滲み出てるものが多くて、まぁ悪くなくてもイマイチ…みたいな作品が多かっただけに、いくら監督がピングドラム脚本担当の古川さんとはいえ本当に衝撃を受けました。古川さんに舵切り全部任せたんだろうなぁと…ナイス判断でした。

 

最後に、レヴュースタァライトが好きなみんなが口にするあの言葉を、この名作への賛美として書き記します。

 

 

 

分かります。